道行く人々が残らずショーウィンドーに映った自分の顔に微笑みかけたい夕映えの頃、雨風の止んだ或るラブホテル街の路上で、男は数人の警官たちに取り押さえられた。地面は、まだ少しばかり湿り気を帯びていたが、男は構わず倒される。それを見ていた中年女の間抜けな嬌声を合図に、一角は突如、人生ドラマの舞台上と化す。突然の逮捕劇に遭遇して、通りを歩いていたビジネスマンたちや、逢引の真っ最中であった恋人同士も、好奇の眼差しで、屈強な警官に今組み伏せられている男の挙動に眺め入っていた。 男は、20代半ばと思しき、一見清潔感溢れる営業マン風の着衣で、このような外見ならばさぞかし取引も上手く行くであろうと、管理職員の眼力を持ってしても見破ることをさせない、すこぶる礼節に則った眉目秀麗ぶりなのである。すらりとした長身に、テレビドラマに出てくるような甘いマスクとは言わぬまでも、ある一定の集団に属するならば、必ずしやミセス佳人の秋波を受けるに相違ない端正な面差し、換言すればどこぞの国立美術館に終生仕舞っておかなければならぬほどの歴史的絵画ではないのだけれど、街角のギャラリーに陳列された暁には、たとえその道の通でなくとも、何がしかの感銘なり、郷愁なりを揺すぶられて、思わずこんな作品はどのぐらいの舞台から飛び降りれば手に入るのかしらんと、あらぬ購買欲を掻き立てられる、そんな顔面部位を備えた美男子なのだ。 都会の表看板とは一線を画する、ホテル街のど真ん中での出来事であるからして、もしやヤクザ同士の縄張り争いでも始まったのかと、それぞれの一人合点に誘われて、今や歩道から車道へ溢れんばかりの野次馬どもで、周囲の交通は一時的な麻痺状態に陥った。慌てて警官が交通整理を始めて、関係のない輩をその場から追い払う。それでも見物の困難と目に留める価値は比例するのだと言わんばかりに、鹿せんべいに群がる害獣よろしく、散っては集まり、逃げては舞い戻り、まったく秩序というものを知らぬ、主演が市民で演出が行政の馬鹿騒ぎが終始続いた。アスファルトに頬を押し付けられて、瓜実顔が食べ残しのピロシキみたいにひしゃげた状態のまま、渦中の男が口を開く。 「ど、どういう事ですか?いきなり掴み掛かるなんて、権力の横暴ですよ。」 つい先刻まで、往年のハリウッドスター並みの黒々とした毛艶を誇っていたオールバックがにわかに振り乱れ、髪の栄養状態は良いのだけれど武芸に暗い落ち武者さながら、たらたらと悔恨の言葉を述べるや、逆に居直ってみせる始末。警官は苦笑とも侮蔑とも取れる薄笑みを浮かべて、男の両肩を掴み、往来の邪魔にならぬ所まで引きずりつつ男を移動させた。 「あんた、その袋の中身は何だね?」 「な、何だっていいでしょう。あなたに言う必要ないじゃないですか。」 「公務への協力は国民の義務だよ。おや、何だい?このDVDデッキは?」 「ちょっと、勝手に見ないで下さいよ。プ、プ、プ、プライバシーの侵害ですよ。」 「この管理社会において、国民にプライバシーなんてものは無いんだよ。どれ、再生してみようか。」 男は急に慌て出し、懇願するように相手を見上げる。 「止めて下さい!個人情報です!」 「情報化時代の担い手が、みみっちい事言うなよ。」 すると、どこからともなく警官ではない別の男が現れ、DVDデッキに配線をあれやこれやと差し込み始め、抗う間もなく用意されたモニター画面に繋げてしまった。チェックの開襟シャツを着て、黒ずんだデニムのパンツを穿き、無精ひげを蓄えているその男は、お世辞にも清潔とは言いがたい、マスコミが流布するところの所謂オタク系の風貌だ。DVDデッキとモニターのスイッチが入れられて、液晶の画面がピンク色に照らし出される。 「こりゃ、すごい。ラブホテルの盗撮映像じゃないか。ふん、不倫カップルか?よろしくやりやがって、羨ましいもんだよ。それはともかく、どうしてこんな映像を持ってるんだい?」 「う、えーと……、知らないよ。そうだ、今そこで、知らないオジサンに貰ったんだ。俺はこんなものが録画されてるなんて、知らなかったんですよ。」 「そんな話、こちらが信用すると思ってるのかい?まったく、警察舐めちゃいけないよ。本当の事を言った方が良いんじゃないの?」 なおも警官に周りを取り囲まれたまま、男は今思いついたような言い訳を繰り返すばかりで、一向に罪を認めなかった。警官は呆れてため息こそ吐いたけれど、どこか自信ありげな表情で男の言い分に耳を傾ける。そのような問答が、暫し両者の間で交わされた。段々と、野次馬どもも苛立ち始める。 「兄ちゃん、分かったよ。どうしても罪を認めないって言うんだな。ようし、こっちも折角、奥の手を用意してあるんだ。そう簡単に口を割られちゃあ、立つ瀬がないよ。じゃあ、そろそろ、例のやつをお願い出来ますか?」 警官はそう言うと、先ほどのチェックの男に目で合図を送り、何がしかの作業を促した。それを受けて、配線男はまたどこぞに消え去り、30秒くらい経過したであろうか、今度は製造元の異なる別のDVDデッキを抱えて戻ってきた。慣れた手付きで配線を組み替えて、新しく持ってきた方のDVDデッキを、モニター画面に繋いでいる。警官はにやにやしながら目の前で行われている作業を見守り、嫌疑の男は全ての状況が夢であればと願うかのように、目をつぶって現実をうっちゃったかと思うや、再び目を見開いて落胆するといった短慮に溺れ、とても自らの愚行を省みる精神的余裕は無さそうだ。 「よし、準備完了しました。」 額の汗をシャツの袖で拭いながら、配線男が警官に向かって言った。またぞろ、モニターのスイッチが入れられ、画面がピンク色に染められる。 「こりゃあ、さっきのラブホテルの部屋を、別の角度から撮ったものだ。画面の隅でごそごそやってるのは、お前じゃないのか?おいおい、天井に細工なんかして、器物損壊だな。どうだ、まだ言い逃れ出来るか?」 そう言われた男は、知らぬ間に飲み下した毒物が、いよいよ体内を侵食し始めたかのように、瞳孔を開いたまま画面に釘付けとなる。警官たちの注視する中、釣り上がった眉が徐々に力を失い始め、やがて大きなため息を一つ、全身の筋肉が弛緩した。そこに映っていたのは、紛れもなく悪行に手を染めている最中の、男自身の姿だったのである。 「え?あ、え?でも、どうして?」 「それじゃあ、続きは署に行ってから聞こうか。ほら、立った立った。」 理由は解せぬまでも、男が観念したらしい事は衆目に伝わったようで、野次馬どもの群れから一斉に拍手が沸き起こった。警官は市民の尊敬の念を受けて、若干ではあるが誇らしげに胸を反り返らせ、現行犯の男をパトカーに連行する。男は瞬時に何十歳も年をとった老人のように、よろよろとされるがままに付いて行き、しきりに首を傾げている様子。それを見た警官が男に訊ねた。 「どうした?まだ言い訳する気か?」 「いや、もう罪は認めます。ただ、どうして私の姿がモニターに映ったんでしょうか?それだけが、どうしても解らなくて……。」 「はっは。お前の犯行は一部始終、マスコミによって撮影されていたんだよ。さっきの無精ひげの男から、ほんの30分前にタレ込みがあったんだ。なんでも、半年間あのホテルでねばって、決定的瞬間を捉えたんだそうだ。」 「ちくしょう!盗撮されていたのか!全然、気が付かなかった!」 「ふん。まあ、そういう訳だ。畢竟、悪い事はできん世の中だよ。」 パトカーが発進した。人々は魔法を解かれて、恋人同士は思い出したように惹かれ合い、手を繋いで先を急ぐ。地面はすっかり乾いていたが、またぽつぽつと小雨が降り始めたようだ。
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