■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

作者:かつまた

最終回   1
 雨が降ってきた。この世のあらゆる不公平が、人々の口をついて吐き出される度に、寄り集まって天上に大気をなし、時々大地に降り注いでは、さざ波みたいに耳の奥を打ち震わせて、ふと自分が誰かに許されていないのではないかと、非拘束の不安に陥る。遠くの家々から順に、霧がかかったような乳白色の微光に包まれて、暗闇の中に、私の考察する余地を残してくれているようだ。
私は今、自分の部屋で、外の景色を眺めているように見える。しかしその人は既に、部屋の明かりが窓に反映させている自分の姿へと、観察する対象を挿げ替えている。私の頸部に取り付けられた首輪から伸びた紐が、部屋の外まで続いているのを、巧みに盲点の中心へ据えるようにして、ゆっくりと練り上げていく作業をスタートし終えていた。
 階段を上がる音。私はそれを認めながら、尚も心のどこかでそれを認めていない。部屋の扉が開き、母が一方的に言い放つ。
「ほらほら。だから言ったでしょ。ぼーっと外なんか見て。雨が入ってくるから、窓を閉めなきゃ。」
 目を伏せたまま、独り言のようにまくし立てると、私の座っているベットに上がり込み、ため息一番、窓を閉めにかかる。途端に、六畳足らずの狭い牢獄に連れ戻され、さざ波の不安は消えてしまう。はらうような仕草でカーテンを引くと、暫し態度を決めかね、決めかねた挙句、また目を伏せてベットから降りた。
「ほんと、あなた。夜なんだから、体が冷えるでしょ。ますます具合が悪くなるわよ。」
 お為ごかしにそう言うと、自閉的社交術を止める伝もないままに、部屋を出るべく扉のノブに手をかける。
「勝手に入って御免なさいね。あら、お父さん、どうしたの?」
 確信犯のくせに謝るなんて卑怯だ。扉の向こうに父がいて、見られた事に対する不満であろうか、小さく一つ舌打ちをした。
 翌日、私はセーラー服に着替えて、母と家を出る。久しぶりの外出だ。母の手中にある端緒から私の首筋まで、影一つ分の間を取り結ぶ紐がだらりと垂れ下がっている。犬の散歩でもするのであれば、往来する理由が明確になるのだろうが、なにぶん歳の離れた同性が距離を保ちながら行くのであるから、傍から見れば親子と受け止めざるを得ない。私たちも親子然として、外界ですれ違う他人と同様、互いの真意を測り続けた。測る事を当然とし、測られる事に怒りを覚えながら。
住宅に挟まれた歩行者専用道を過ぎて、自動車の通行可能な広い公道に出る。肌寒さの残る空気を陽光が温め、徐々に季節が変わりつつあるのを、時折吹きすさぶ風の触手が教えてくれているようだ。閉じ篭れば閉じ篭るほど、世界の動性に鋭敏となる。いや、逆かも知れない。世界の動性に鋭敏となるほどに、主体の許容範囲が限定されてしまうのだろうか。学校までは約15分。私たちは黙って、下を向いたまま歩いた。
 ちょうど二時間目の授業が行われている最中、私たちは応接室に通されて、担任の教師が来るのを待った。手持ち無沙汰で、また自分の爪を噛んでしまい、母があべこべの方を見やりながら、それらしき辺りを叱責する。
「お待たせしました。」
 若い女の教師が応接室に入って来た。私の担任だ。
「すいません、どうも。お手数かけまして。」
 母が革張りの椅子から立ち上がって、恐らく私に費やされた諸々の手間や時間について謝罪したのだろう。なるほど、迷惑をかけているらしい。私はその時になってようやく、問題が家族のコミュニケーションにあるのではなく、私のエゴにあるのだと気付いた。
「いえいえ、今の時期は試験に向けて自習時間を多く取っていますから、気になさらないで下さい。」
「ああ、そうなんですか。」
 母がなにやら納得したげに、教師に続いて再び椅子に座った。こうなると、また問題は迷走を余儀なくされて、私にしてみれば持ち前のエゴを発揮して憤慨してしまうのだが、よくよく考えてみると、相手の依って立つ立場に連関していちいち問題が微調整され、結局銃口はこちらに向けられたままなのだから堪らない。私は底なしの痰壺ではないのだ。
「あらまあ。前よりも痩せたんじゃないの?ちゃんとご飯は食べてる?」
「そうなんです。ほんとに聞き分けのない子で。どうしてこんな風になっちゃったのか、もう、親として情けないです……。」
 母が涙ぐむ。繰り返しになるが、私は底なしの痰壺ではない。吐き続けると溢れ出す。スケープゴートになるほどの慈善心は持ち合わせていないから、苦しくなったら逃げるぞ。第二の生贄候補は必死に逃亡を阻止しようとするだろうが、私はやがて成長し、独立する。立派な人身御供となって奉仕し続ける気は更々無い。それが問題の核心だと私は思う。
「このままでは、進学は愚か、卒業も難しいでしょう。どうしますか?休学という選択肢もありますよ。」
「あなたが蒔いた種なんだから、自分で責任取りなさい。私はもう、面倒見切れないわ。」
 今度は両手を振り回して、母は怒りに身を任せた。教師は驚くが、私は表情を変えない。悲劇を作出して飢餓をほお張ろうとする種類の女には組しない。それがまた、母を怒らせる。私は種を蒔いた張本人について語りたい誘惑に駆られたが、第三者ならともかく、既にストレスを融通し合っている二人に、問題を処理する能力が無い事を思えば、要らぬ告白をするメリットが皆無であるばかりでなく、何の権限も無い一教師に瓦解した家族の歴史について述べる作業が強力に忍びない。私はいつものようにそれを飲み込んで、大人全般が毛嫌いする、例の若者然とした覇気の無い能面顔に徹した。
「あなたが何を考えているのか、私にはさっぱり解らないわ。」
 母が机に崩れ落ちて、教師がそれを起こしにかかる。それに気を良くした母が、益々それを激しく行う。そのうち飽きるだろう。ほっとけ。
「と、とにかく今後の事もよく考えて。自分を大切にしなくちゃ駄目よ。」
 教師から私へ投げかけられた最後の言葉が、思わぬ郷愁を呼び起こした。一瞬、止め処のない悔恨が、涙腺をついて溢れそうになったが、しかし教師よ、私はそれを根絶やしにする能力を、既に身に着けてしまったのだ。能面は私にとって盾。能面顔を壊そうとする勢力は、善悪に関わらず敵だ。事態は既に、修正不能なところまで進行している。勇気を持って、もう遅いと認め合おうではないか。全てが燃え尽きて灰になれば、地上から新しい命が芽吹かぬとも限らぬ。まあ、その時私は、もうそこにいないのだが……。
 帰り道、自分が被害者であると、教師に対し、力強く印象付ける事に成功した母は、行きしなと違ってかなりの上機嫌である。私は母から3メートルほど離れて歩く暗黙の許しを得て、一人先んじてして前を行き、新鮮な空気と邪魔者のいなくなった景色に、少なからず満足していた。空は晴れ渡り、遥か遠くに絵の具の白よりもなお白い雲が、前方後円墳から角のない緩やかな菱形へ、変幻自在の旅を続けている。アスファルトの道路に目を転じると、視界に飛び込む地方都市ののどかな風景と共に、土と埃の混ざり合った懐かしい3月の匂い。私はいつも思うのだ。希望は大挙して押し寄せるが、その分去り際も早く、バランスというものを知らない恐ろしく原始的な感情で、私の前にこれ見よがしに現れては、こちらが食いつくのも待たずにするりとその身を翻す。もし主体が躊躇を駆使すれば、そいつは氷よろしくその場に凝固して、月日の風化共々、少しずつ体積を無くしながら、いつまでも私の愛でるままに、今日のこの瞬間を提供し続けてくれるのだろうか。3メートルの自由を右手に、逃亡の末の非拘束を左手に、逡巡が重みとなって浮き沈み、くしくも私の眼前に見事なバランスを描いた。
 その時、私の首を取り巻く皮製の命題がぐいと引っ張られ、途端によろよろと母の手前へ、彼女にとっての希望を帰還させた。母はにっこり笑って、私を侮蔑する。
「懐かしいわねぇ。ここはあなたがよく遊んだ公園でしょ?」
「あなたが懐かしがるのは変ですね。あなたと共に来た記憶はないですけど。」
「大切なのはバランスではなくて、達成可能性だと思うわ。」
「私は100%成長するんですよ。いつまでも子犬のつもりで、飼い始めたんじゃないでしょう?」
「私は私の幸福を最大にするために、あなたを生んだの。私は私の幸福を最大にするために、あなたを育てるのよ。」
「あなたの理由は尊重します。私の理由が尊重されるのと同じように。」
「公園で遊んでらっしゃいな。見ていてあげるわ。久しぶりの運動でしょ?」
 紐を握り締める母の手に力が入る。挑発されているらしい。私は散々衝突を迷った挙句、諦めた自分を裏切った。
それはまるで、こちらから突風を迎えに行くようなものだ。スニーカーが埃を巻き上げて、前方へ私を押し出した。すぐさま体を前傾に倒して、二歩目の加重を左足の踵を浮かせ弾き返す。何もない空間目掛けて、何もない状態を目指して、全身が弾と化して加速していく。いくら握力が強くても、推進力と体重が加わればパワーに勝るはずだ。一気に手中を逃れて、中空を走る紐を回収したら、私は完全なる非拘束となり……。
 思考が止まった。どうやら紐は伸縮性をもっており、急激な力の負荷を吸収する性質を有しているらしい。やにわに首が圧迫されて、景色が白から黒へと急変する。私は前傾姿勢から逆向きに、瞬時に状態を一変させられたので、どうにも手足が離反して、頭を地面に強く打ち付けた。
 絶望が粘着質で良かった。もし絶望が鋭利だったら、全ての渦中の人はとっくにあの世行きだ。気が付くと私と空の間に、母の笑顔が割り込んでいる。
「解ってもらえたかしら?私の愛の強さ。」
「解りましたよ。あなたの愛の恐ろしさ。」
 家に帰ると、私は夜が更けるまで、部屋で時を過ごした。皆が寝静まるまでの長い時間、悔しいので自らを縛っている紐で、綾取りをしてやった。天の川から東京タワーへ、これが思いのほか上手くいく。決められた囲いの中で生きるのだと決めてしまえば、案外楽な暮らしになるのかも知れない。こちらが下手に出てやれば、紐はするすると伸びて、行動範囲も少しは広がるだろう。束の間、考えた。さて、諦めて屈服しますか?窓に映っている自分に問いかける。いやいや、そんな事をしてしまえば、今度は私が私に牙を剥く。
 午前2時を回った頃、空腹を覚えたので自分の部屋を出た。階段を降りて、暗闇の中に冷蔵庫の音だけが鳴り響く、台所へと向かう。夕食の残りもないようだ。カップラーメンを調理しようとやかんを手に、水道の蛇口をひねりかけた時、背後で人の気配がした。
 殴られるのを覚悟した。夜の側溝で野良猫と遭遇したどぶねずみのように、背中が反射的に萎縮する。ゆっくり振り返ると母だった。
「何してるの?」
 分かってても聞くのが常である。
「ラーメン作ってます。」
「そんなものばっかり食べてるから、学校に行けなくなるんでしょう。止めなさいよ。みっともない。」
 少なからず傷付いて、それこそどぶねずみのように、ほうほうの体で部屋に逃げ込んだ。ああ、知らなんだ。学校にも行かず、夜中にラーメンを作る作業が、みっともない行為だなんて。何故だろう?引き篭もりのくせに、こそこそ生きようとする光景が、浅ましく映るからだろうか?表面上は排他的に振舞うのに、裏では他人の庇護に屈する自己矛盾が、愚かに見えるからだろうか?私は切り開かれた腕の中から、溢れ出る鮮血を眺めつつ、猛烈に思考した。ベットのシーツに滲みこんで、徐々に広がっていく暗黒に落ち込みながら、激烈に逃避した。死にたい!死にたい!死にたい!否!生きたい!生きたい!生きたい!ゆえに死にたい!そのまま意識が朦朧として、横になった途端、全てが灰色に包まれて、私は意識下となる。
 半年が過ぎた。病院の診察室。白を基調として統一された室内に、診察器具の触れ合う微かな音がして、今にも眠りにつけそうな穏やかさだ。私の真向かいに医者が座っている。私の後ろには、父と母。結局私は、散々周りに迷惑をかけておいて、尚且つ勝手に苦しみ、自爆してしまったのだ。
「入院が必要です。栄養点滴をしましょう。これほどになるまで、どうして放っておいたんですか?」
「もう娘が見えなくなってしまったんです。ここにいるのは、私の愛した娘ではありません。」
 実際、私は消えかかっていた。ちょっと微風が吹いただけで、飛んでしまいそうなほどに痩せてしまって、呼吸も困難な有様だ。
「じゃあ、一体。ここにいるのは誰なんだ?」
 父が問うた。
「生物学上はあなた方の子供です。」
 医者が答える。
「情動に従えば赤の他人です。」
 母が答えた。
「俺は知らんぞ。俺のせいじゃない。」
 父がかぶりをふる。
「私のせいでもないわよ。この子のせいよ。」
 母もかぶりをふる。
「では、要らないんですね?」
 医者が問うた。
「要りません!」
 父と母が言った。その瞬間、開かれている窓から室内に向けて、不意の突風が吹き込んできて、思わず皆が目を閉じる。私といえばゼロであるから、ついに首輪をすり抜けて、風に煽られるまま、窓の外へ飛び出してしまった。
 後に残された者がどうなったかは知らない。ぐんぐん上昇してどんどん離れる。私は空っぽになって、眼下に広がる町並みを、いつまでもいつまでも子供のように愛していた。

■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections