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吉野彷徨(U)若き妃の章 作者:ゲン ヒデ

第34回   歌姫
 見送りの、近江朝重臣らの姿が見えなくなると、大海人一行は、急に足取りを速めた。万一の、追っ手を怖れたのである。

 近江と奈良を結ぶこの街道は、現代から見れば車一台がやっと通れる、歌姫越(えつ・街道)と呼ばれる当時の国道である。みなは黙々と急ぐが、讃良のそばで、赤兄の娘・石川夫人が、小声で、
「正妻さま、父は陛下(天智)の指図で、有間皇子を悪辣な手で死に追いやったとか。さっき、あの事件の黒幕を、殿(大海人)だと示されましたが?」
「何年か前、殿が、うなされてねえ。……亡くなった定恵さんが夢に出てきたのよ。どうも勘違いで、父(天智)に殺すよう、そそのかしたみたい」
「勘違いって?」
「それは、秘密。……その寝言に有間さまの名がでたから、わたしは、男の声のまねをして『大海人よ、よくも、この有間を殺してくれたなあ。地獄へ連れて行こうぞ』と耳元でささやいたの。すると謝まる寝言をしたのよ。その言い訳では、赤兄に、有間を死に追いやれば、父(天智)が信頼し、出世させる、と思わせぶりに話したのよ」
「なぜ、殿は有間皇子を?……」
「それも秘密。いろいろ事情があるのよ」
 前を行く大海人を、赤兄の娘の視線は追った。
 
 讃良は、その晩、大海人の告白をきき、愛しい有間を死に追いやった張本人が夫だったことに、まんじりともせず、悩んだ。が、横で寝ている草壁の寝顔をみて、これも運命だと、受け入れる覚悟をしたのであったが……。 

 昼すぎに、添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社に入った。奈良盆地に入る手前、現在の歌姫町にある由緒ある社である。大海人とは懇意の里長(さとおさ)は宮司も兼ねている。ここで分散して、しばしの休息と昼食をとるのだが、里長の館の広間では、大海人と大伴吹負と讃良らが一緒であった。
 
 弁当を食べながら、吹負は、辞めた大津宮での、民からの租の奪収役の仕事の愚痴を大海人に言うと、大海人はすなおに謝り、
「三韓遠征の大敗から立ち直るため、国々の人々に重荷を負わせたしまったが、その政策にわたしも荷担してしまった。性急な改革は間違いだったなあ。地位を失ったわたしには、もう何もできぬ。許してくれい」
 頭を下げる大海人に、吹負は、心を惹かれる。

 里長が暖めた濁り酒や柿など差し入れ、讃良は、吹負に酌をし、護衛の役の礼を言うと、この豪族は恐縮しつつ、盃を下した。大海人にも酌をし、自分の席に戻る。
 誌斐と昔話をしながら、柿を小刀で剥き、誌斐と草壁にも与え、上品に柿を食している。

 誌斐がそれを見て、ふと云う、
「姫さま。不作法に物を食べられのをご注意したとき、逆上なされ、『飛鳥へ帰る、帰る』とだだっ子のようになされましたねえ。あれは、もうなさらないでくださいね」
 聞いた讃良、
「?……何のこと。幼いころの事を言われても、覚えていないわよ」きょとんとして、誌斐にたずねると
「いえ、しっかりなされているはずの、十四歳頃ですよ」
 草壁が(あれ?)という顔をし、(へえー)と母を見上げたので、讃良、
「誌斐、変なこと言わないで、そんなことしていません」といい、朗々と詠う、

「♪いなと言えど 誌斐のが 強語(しひがたり) このごろ 聞かず手 あれ恋にけり♪」

(嫌だと言うのに、無理に聞かせる誌斐の婆さんの押しつけ話。最近は聞かなくて なつかしがっているよ)                   *注4

「まあ!姫さまったら」といい、すぐさま誌斐が返す、

「♪いなと言えど 語れ語れと 詔(の)らせこそ 誌斐いは申せ 強語(しひがたり)と言(の)る♪」

 (いやだと申しますのに、姫さまが「話せ話せ」としつこくおっしゃるからこそ、志斐めはお話し申し上げるのですよ。それを「押しつけ話」とおっしゃるなんて)                                  *注5 
 二人の問答歌を聞いた大海人が(ともに、上手い上手い)と誉めると、みなも手を叩いた。座をなごやかにしたのだが、何か讃良は引っかかっていた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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