讃良が見舞いに行ってから、二十日くらい後に、大海人は天智に呼ばれた。 夕刻近く、讃良たち妃ら七人は、正殿に集まっていた。大海人の帰宅が遅いので、皆、不安な気持ちで待っている。
「讃良さま、なにかあったのでしょうか。まさか、陛下が御亡くなりに……」妃の一人がいうと、 「父は、話したいことがあるから、と呼んでいたから、まだそれはないと思うわ。だけど、考えたくないけど、殿は殺されたかも」不安そうに、讃良は漏らした。 「ええ! なぜ!」大江が驚く。 「伊賀(大友皇子)が皇位を継ぐのに、殿がじゃまなのよ」 「そうなると、私たちは、どうなるのでしょう」さっきの妃が、また たずねた。 「殺されるかも、……でも、父の様子からみて、そこまではしないと思うけど」
みなが、静まっていると、 「戻ったぞ」と、大海人の声がした。あわてて、皆が外へでると、従者の他に役人らが付き添い、大海人は、僧の姿で立っていた。大海人の指図で、従者と役人は武器倉へ急ぐ。その後ろ姿に、大海人 「よいか、槍、刀、弓矢はすべて宮中に持ち帰るのだぞ、わしには不用だからな!」と声をかけた。
驚いた讃良が、 「そのお姿は! どうなされたのです!」 「ああ、出家した。奧で話そう」
招かれた寝所で、天智は、後事を託したい、と大海人に告げる。大海人は、病がちでお受けできない、後事は太后(倭姫)に任せ、大友皇子を皇太子に、、自分は陛下のため出家して修行します、と言い、すぐさま仏殿にいき、髪を下ろした。すぐに手回しよく、天智から、袈裟が贈られた。
「まあ、そういうことだ」と、さばさばとして言う大海人に、讃良は、 「なぜ、そんな返事をしたの」とあきれ顔でいう。 「その前に、蘇我安麻呂から、『何かあるかもしれませんから、陛下には、注意深く話をなされるように』と言われたからな」
父の寝所での右大臣・蘇我連金の態度を思い出し、讃良は、 「殿は、謀(はか)られたのよ……。なぜ、『我が婿・大友皇子が、陛下の跡を継ぐのが筋、わたしめは、精一杯、後押しをし、お助けします』といわなかったの! よりによって、叔母(倭姫)を勧めるなんて。あなたさまの心の奥底には、大友に大王になってもらいたくない、と言ったようなものよ。それも病気がちで、なんて……何の病にかかったの」
大海人は、「ああ、しまった」と呻く。 「殺されるとの不安で、あなた様は、逃げ出す気で、出家すると言ったのでしょうが、……まるで、古人さまと同じですよ」 入鹿が殺された後、古人大兄皇子は勧められた皇位を辞退し、直ぐさま出家して吉野へ去ったのである。
「ああ、どうしよう……」うろたえる大海人を、讃良は初めて見た。 「ここにいれば、暗殺されるおそれが……」考え込む讃良に、ふうっと吉野の景色が浮かんだ。 「思いきって、吉野へ行きましょう」 「吉野へ? 古人の二の舞になるぞ」 「学んでいるから、同じ失敗はしなければいいのです。これから厳しい冬になるから、しばらくは暗殺隊は襲いに来ないでしょうし」
皆を集めて讃良が、これからのことを指図した。 翌日、舎人の何人かが川島皇子の屋敷へ向かった。そこで養われている大津皇子と佐伯皇女に仕えるためである。讃良は、入鹿の啓示の、大津が殺されるという持統天皇が、大友皇子ではないかと思い、いざというとき、人質にされないよう、この宮から脱出させる手はずを、大津に残る嶋に頼んでいた。また、大海人の屋敷には、高市と数人の妃らと幼い子らも残す。同じく、脱出させるつもりである。
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