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吉野彷徨(U)若き妃の章 作者:ゲン ヒデ

第30回   高殿での騒ぎ
 琵琶湖に、木々の紅葉が映る頃、大海人邸に、額田王から知らせの使いが来る。
柿本猿である。この若者から渡された木片(木簡)を読んだ大海人、呼んだ嶋に、
「兄は、わしを臣籍降下させる気だ!」
「え! なぜ?」
「近頃仕えた近従が、わしを日継ぎの皇子(皇太子)と、思いこんでいたそうだ。その勘違いから兄は、自分に万一のとき、わしが後を継ぐ事態になるかも、と不安になったらしい」
 
 皇太子制度は、大化の改新のときから始まった制度である。中大兄皇子(天智)自身が考えだしたが、それまでは次帝候補は、複数の「大兄」から選ばれていたのである。天智は、大海人を皇太子にしていないが、天智の片腕として働いている
大海人を、世間は皇太子と見なしだし、王家の血を継いでない大海人が帝位につく可能性に天智は気づき、あわてたのである。

「嶋、入鹿を刺した槍は、まだあるか?」
「えーと……、飛鳥の旧宅の物置小屋に放り込んだままと、思いますが」
「すぐに探し出し、古い血がこびりついたままで、持ってこい。洗い流してはならぬぞ」
「はあ?」
「わしが、皇族に残れるかどうかの瀬戸際だ。あれで脅かそう」

 九月九日、琵琶湖が見渡せる宮中の楼閣では、重陽宴(ちょうようのえん)が始まっていた。詩歌や舞の披露をし、菊花を浮かべた酒を賜る、中国から伝わった行事である。
 諸臣の舞が、一服したころ、盃を下ろし、天智は横にいる大海人にいう、
「左や右の大臣(おとど)と内の大臣(おとど)の上にさらに大臣(おとど)を設けようと思うのだが」
「はあ……」大海人はとぼけた表情だが、緊張した。
「おおきおとど、と名付けようと思うが」と言って、懐から紙をだす。黒々と(太政大臣)と書かれた字を見せられても、大海人は興味なさそうに、盃に口を付ける。ささやくように天智、
「お前に、その位に就いてもらいたいが……、その代わり、皇族から降りてもらえぬか。娘たちも与えたし、人臣位の頂点に代わるということで……」天智は大海人の顔をうかがった。
 すぐさま大海人は、激高し、
「何を言われる! 皇族でいるのが、我が生き甲斐! そのため、おまえの為に、どれだけ汚いことを引き受けたか!」といい、横に置いていた槍の被せをはぎ取り、立ち上がり、高床に槍を突き刺し、叫んだ、
「この古い血の跡を見ろ、エー、誰の血だ! お前と共に殺した入鹿の血だぞ! 入鹿は、お前にとって何者だ。エー何者だ!……みんな聞け、入鹿はなあ……」
 秘密をバラされそうになった天智は、剣を抜いた。あわてて鎌足が間に入り、
「お二人とも、お静まりください! 昔のことをいまさら蒸し返しても、何になりますか。お二人とも抑えてくださいませ!」
 鎌足のけんめいな説得で、騒ぎは収まり、臣籍降下はさたやみになった。
 
 だが、鎌足が自分の出生の秘密を知っていることに、大海人は衝撃を受けた。
 鎌足は、この二年後、落馬による骨折の治りが悪くて亡くなるのだが、鎌足の可能性がある阿武隈山古墳の被葬者には、通常よりヒ素が多かったそうである。
 当時、ヒ素を含む鉱物は仙薬の材料とみなされているから、毒殺されたとも言えないが……。

 この三年後の天智十年(六七一)一月に天智は、我が子・大友を生母の身分が低いゆえに、皇太子にできず、太政大臣に任命するのだが、大海人は皇太子にはなっていない。(日本書紀や万葉集の編纂者たちは、壬申の乱で天武側についた者たちの子孫ゆえ、大海人は皇太子であったと書いているのだが)

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Novel Editor by BS CGI Rental
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