初秋の頃の昼下がり、窓近くで讃良は巻物を読んでいた。帰ってきた、大海人が正殿に上がってくる。その足音に気づいた讃良は、起きて主人に近づき、上着を脱がす。
ちらっと、書台の巻物を見て、大海人、 「読書か」 「はい、内大臣(鎌足)から借りた史記を、読んでいました」 「ほう、漢文が読めるのか」 「何となく、知った字から意味が分かりそうで」
「ふーん。あれ? 草壁は」 「高市(たけち皇子)の魚釣りにせがんで、付いて行きました」 「誰か大人が、付いているのか」 「いえ、本を届けてくれた内大臣のお子が、守り役を引き受けてくれまして」 「鎌足の子?……ああ次男か」 「不比等という、十歳のお子ですが、しっかりしていますよ。史記もよく知っていて、それに出雲の大国主(おおくにぬし)の昔話を草壁に話してくれたりして、草壁もなついてねえ」
着替えながら、大海人、巻物を覗き込んで、 「史記は百巻を超える大著だそうだが、どれを読んでいる?」 「高祖本記とハンレキ籐灌列伝」 「高祖と、ハンレキ?」 「漢の初代皇帝・劉邦と、仕えた四人の将軍、ハンカイ、レキ商、夏侯嬰、灌嬰の事跡です」 「ああ、漢楚の争乱か」
「ねえ、殿、劉邦って、おもしろい人物ですねえ。沛のごろつきなのに、親分肌で、皆から親しまれ、天下取りでは、項羽に負けては逃げ、懲りずに何度も挑み、最後には、皇帝になったでしょ」 「ああ、そうだ」あまり、学んでいない大海人は知った顔をして、座にすわり、讃良のおしゃべりを聞く。
「沛の厩番だった夏侯嬰は、劉邦が好きでいつも付きまとっていて、後に戦車戦の指揮官になると連戦連勝したから、馬扱いの天才でしょうねえ。……ああ、項羽に城を攻められ、夏侯嬰が御者をして、馬車で劉邦が逃げ出したときがあったでしょう。夏は劉邦の子供二人を見つけ乗せたのに、敵が追いつくのをおそれた劉邦が、何度も子供を放り出して、夏が拾う場面に、はらはらしました」 「なんという親だのう」おもわず大海人は、感想をいう。 「でも、生きるか死ぬかの瀬戸際で、我が身大事のむき出しの人間性を出したけど、この方は、やはり皇帝になる運命を持っていたのでしょうねえ」 「ふーん」大海人は、讃良の感想に相づちをする。
「で、読んでいて、放り出された劉邦の息子と娘から、大伯と大津の二人を連想しましたけど……。殿、二人をこの屋敷に引き取ってもらえませんか」 「二人を……」大海人、急な願いに戸惑う。 「お盆にこちらへ泊まったでしょう。二人のわたしを見る目は、姉のおもかげを追っているようで……、それに色夫古(いろしこ)さんの所へ戻るとき、ふたりは、それは寂しそうな顔をしていました。不憫で……」 「あちらでは、二人とも大事にされているし、兄がよく寄り、二人を可愛がっているが……」 「でも、母親代わりになれるわたしや、実の父親のあなたさまと離れて暮らしているのは、どうかと思いますが」 「兄に愛されていることは、二人の将来には都合がいいから、このままでいい」 「そうですかねえ」讃良は、言い切られても、なんとなく将来に不安を感じた。
後々、大津は、叔母に見捨てられた感情から、ぬくぬくと叔母の元で育った草壁に恋や学問で対抗心をもちだす。そこから、讃良周辺が危険視し、処刑にまでいたる悲劇が起こるのである。
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