十市への妻問い婚が終われば、十市は大友皇子の館で暮らすことになったが、母・額田王も同居し、宮中神殿の女官として勤める事になった。その前の晩、額田の寝所で大海人は、 「よいか、額田、兄の身辺での出来事は、わしに関わることは些細なことでも知らせてくれ。それから、伊賀(大友皇子)に、お前の配下の物部麻呂を舎人として仕えさせろ。この身の振り方を間違えると、わしどころか、この家が滅ぶ。兄が長生きしたら、わしはすんなりと引退して、伊賀に大王位を継いでもらうが、兄が早死にでもしたら、皇族争いになるかもしれぬ。兄の取り巻きらに、反感を持った者も多い。その者らがわしを頼ると、厄介なことになる」 「では、帝位を狙っては」 「伊賀は、お前の娘の主人だぞ、わしにとっては、娘婿、……それにわしは偽皇族だ。この弱みが、表沙汰になれば、皇族にはおられぬ。帝位どころか、あやうい立場だ」 大海人は小用に外へ出た。終えてから、満月を見上げ、つぶやく、 「日に照らされての月か……輝くほうの太陽……大王になりたいのう」
同じ頃、鎌足の寝所では、 「鏡よ、そなたの父(鏡王)からの配下、草忍らは、妹、額田王には付いていないのだな」 「額田部の所領だけの者、数人だけでしょうねえ。草忍衆を分けると情報力が落ちると、父はおそれ、ほとんどの者は、わたしの配下にしていますが」 「大海人の皇子は、渡来人らの草忍らを諸国に置いているらしいが、対抗して、お前の配下を、わしのため、いや不比等のために豪族らの家に入り込ませてくれ。万一わしが亡くなったら、不比等から代々の子孫へ、代々の草忍らが忠誠を尽すように計らうのだ。そのための財なら、幾らでもやる」
「わかりました。草の束ね役に言いましょう。ときに、妹(額田王)からの使いの若者を見たことがあるでしょう」 「ああ、仕童だった男か」 「あれは、きっと忍びですよ。和歌(うた)が上手いので、不比等は和歌作りの師と仰いで、和歌の添削を頼んでいますが、いいでしょうか」 「我が家には、知れる秘密はないから、出入りしてもいいだろう。……それにしても、不比等は歌集を編んでいるのか」九歳の我が子の歌集作りに、鎌足は興味をもつ。 「ええ、筆名を、柿本人麻呂としましてねえ」 「かきのもとのひとまろ?」 「あの若者は、柿本の猿といい、木の上の猿から、下で教えをうけている人間が、自分だから、柿本人麻呂ですって」 「ははは、面白い名付け方だ。明日、歌集を見せてもらおうか」
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