讃良が、新しい住まいになれだした頃、大海人邸を天智が訪れた。大友皇子が、十市姫への妻問い婚をすることへの、下調べのためである。まず正殿に寄った。大海人と正妻の讃良の住まいである。
懐からヤジロベエを取り出し、孫・草壁の遊びの相手をして、ほがらかに笑い、讃良にいう、 「どうじゃ、ここの暮らしになれたか?」 「大和とちがって、初めは戸惑ったけど、風光明媚とはこの地のことねえ。気に入っているわ」 「そうだろう。わしも、ここの景色を初めて見たとき、住みたいと思ったのじゃ」 「主人は、出かけて、いないけど、何か用なの」 「伊賀(大友)の妻問いの下調べにきた。あちらの、建物で、額田と住んでいるのか」 「そうよ、あの建物よ……。(考え込み)お父さま、自らねえ……、親ばかみたいよ」 「そうだ、わしは、親ばかだ、ははは。賢いあれには、うーんと期待しておる」 愉快そうに笑う父を見て、讃良は、父が次期帝を大友にするつもりだと、気づく。となると、周囲から皇太子候補に思われている大海人の立場に不安を感じた。
この娘の不安に気づかず、天智は、ヤジロベエを幼児に渡し、 「讃良、間人から、何か書いた物をもらっていないか」 「形見分けは衣服と、櫛と、首飾りだけで……、書き物といえば、私が描いた城の絵は、棺の中に入れたけど」 「宮中神事の作法の書き付けみたいな物だが」 「叔母さまはそういう物を持っていたかしら?」 「間人は、儀式の作法を伝授してくれなかった。おおよそは、巫女らが教えてくれるが、細かいところが、どうもわからぬ。おまえ、間人から教えてもらっていないか」 「天照神さまへの祝詞の作法なら、おしえてもらったけど、他は聞いていないわ」 少し考え、 「軽の帝と、有間さまへのお父様の仕打ちに、叔母さまは、意趣返しで、神事の作法を伝授しなかったのじゃないの」
「そうかもしれぬ」困り果てた表情の父に、 「額田さんが知っているのじゃないの。お祖母(斉明)様付の巫女で、代理で神事もこなしていたじゃない」 「ああ、そうか、すっかり忘れていた! 額田に神事儀式の女官となってもらおう」 「お父さま、主人に同意してもらってからよ」 「ああ、頼んでみる」
「お父さま、二人きりでいることが多くなるけど、手を出さないでね」 「うん?」 「額田さんと変なことにならないでね、と言っているのよ」 「オイオイ、何をいうのだ、息子の嫁の母で、弟の妻だぞ。それになあ……四十を超えたおなごを抱くのは……」
突然、戸外から、女人らが入ってくる。高松塚古墳に描かれた女性らと同じ服装の、親子・額田王(みかたのおおきみ)と、十市姫である。十市は、十五歳となっている。 ひざまづいて、額田、 「大王のお越しと聞き、参上しました。わ子さまとこの子の婚について、何か?」 「準備が、進んでいるか、ちらっと寄ったが」 「さようですか、万事できております」 「十市は、きれいよのう。髪飾りも、きらきら輝いて、まっこと、きれいじゃ」
「陛下、先ほどの四十を超えたおなごとは、わたくしめのことでございますか」と額田、 「あ……、いやな、そなたは、とても四十とは思われぬほど、若いと言おうとしたのじゃ」 「陛下、わたしめは……三十九(数え)でございます。四十を越してはおりませぬ!」 むきになって言う額田に、 「ははは、すまぬ、すまぬ。……だが、妖艶だのう」額田は、鎌足に下げ渡した鏡王の妹である。感心するように、姉の面影を残す額田を見つめる天智に、 「お父さま!」讃良が、声を荒げた。 それを聞き、ヤジロベエを落とし、草壁が泣き出す。若い祖父(四十一歳)はあやす。その姿はとても帝王とは見えず、皆の笑い声がもれた。
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