■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

吉野彷徨(U)若き妃の章 作者:ゲン ヒデ

第2回   皇租母・糠手皇女
 この宴には、斉明女帝ですら頭が上がらぬ、姑の糠手皇女(ぬかでひめのみこ)も臨席し、焼きイワナを囓っている。歯も丈夫な、齢八十を超えた、かくしゃくとした老婆である。
 この老婆、二十三年前に亡くなった舒明天皇の母親である。だから、太田姫や讃良姫はひ孫に当たる。横に斉明女帝が、付き添う。
 
 新郎新婦の席には壮年の大海人皇子と、現代でいえば幼妻の十四歳の讃良皇女が座っていたが、大海人は皆に酌をしに廻っていて、ぽつんと讃良がたたづむ。その横で、姉の大田皇女が浮かぬ顔をしている。
 それを見て、糠手皇女が、讃良と、姉の太田皇女を手招きした。
 寄った二人に
「これ、太田と讃良よ、妾の生きている内に、元気な玄孫(やしゃご)を見せてくれや。競争して、元気な子を産んでくりゃれ。でも仲良くな」
 太田姫は、笑顔を作り、
「はい」と答えた。本人はまだ気づかないが、実は妊娠しているのである。

 讃良姫は活発な方だが、姉はおっとりした性で、二人ともよく似た聡明そうな美少女だが、妹が朝顔ならば、憂いを含んだ顔は、夕顔の花のようである。
 讃良は、気をきかせ
「お姉さま、安心して。あたしは、殿を独り占めなぞしないわ。姉様を困らせたりはしないから」
 同じ男の妻になるといっても、早くから母を亡くし、寄り添って生きていた姉妹の絆は深く、共に競争心を起こす気にはなれなかったのである。

 大祖母は、向こうで中大兄と酒を酌み交わす大海人を、ちらっと見て、ささやくように
「あのどこの馬とも知れぬ偽皇子の子とて、お前たちの王家の血筋があれば、なんとかなろう。それからな、兄弟姉妹が助け合っていく一族は、必ず栄える。昔、厩戸の皇子が、朝議で皆に諭されたが、和を持って尊しとし、逆らうことなきとし……」 年寄りの癖で、厩戸(うまやど)の皇子の昔話が、また始まる。
 
 聞き慣れている話を、日頃は誰も止めようとは、しないが……。讃良が、ふいに
「大婆さま、それは聖徳太子の十七条の憲法とかいうものでは?」
 大祖母は、不思議そうに、
「ショウトクタイシ? ジュウヒチジョウノケンポウ? 何の事じゃ」
 讃良、説明する
「厩戸の皇子さまへの追号が、聖なる徳のある皇太子で、聖徳太子。朝議で、臣下らの守るべき十七のおさとしを十七条の憲法というのでは」
 と説明する。
「ウーン、聖徳太子と、十七条の憲法のう。聞いたこともないが、確かに十七ほど言われたが……」
 大祖母は首を傾げる。
 横で聞いていた斉明女帝が、驚き、
「讃良、それはもしかして、未来の入鹿の学び家での記憶では?」
「だろうと、思います」
 せっつくように、女帝が問う。
「他に、どんな記憶があるのじゃ!」  
「ときたま、断片の光景が浮かんだけど、このごろはあまり……ああ、十日前、起きだすとき、子供のころの入鹿が、路地から飛び出すと、前から牛車に輿が載せられた奇妙な乗り物が襲ってきて、目前でとまり、輿から怖そうな男が、顔を出して大声で怒っているの。それが、その輿、人も牛、馬も引いていないの……、それくらいしか」
「それだけか。転生した入鹿の、学び屋での知識の断片が、お前の頭に、もっと残っていて、これから起こる歴史の流れを、知ることができれば……」
 自分の未来予知で、間違った方向へ歴史が動いているのでは、という不安が拭い切れず、自身の予知を封印していた斉明女帝は、これからの歴史が、讃良から判れば、と残念がったのである。

 横で聞いていた大祖母は、あきれ、
「性懲りもなく、予知という幻を追うのか……。それよりも宝よ、厩戸の皇子さまが、まつりごとをなされた頃は、争いごとを皆が控えて、穏やかじゃったが、お前の神懸かりのまつりごとから、血なまぐさい事が続き、古人(糠手の初孫の皇子)まで殺されたが……。当たらぬ予知は、もう、うんざりじゃ」
 糠手皇女は、ふらふらと歩く中大兄をみて、ため息顔になる。斉明はくどくど言い訳をしだす。
 
 伊賀の皇子(みこ)(大友皇子・後の弘文天皇)と高市の皇子(みこ)、十市の姫の三人が、仲良く、飲み食いをしている。
 伊賀の皇子は十歳、十市の姫と高市の皇子は六,七歳であろうか。
 誌斐が、子達の膳を取り替えようとしてると、ぶらっと中大兄が近づき、
「どうじゃ、伊賀、十市よ、お前たちも夫婦にならぬか、お似合いだぞ」
 二人は、ぽかーんとした風情で、中大兄を見上げる。
 横から十市の姫の生母・額田王(ぬかたのおおきみ)、笑顔で
「殿下、お気が早い。まだ、十市はまだ幼うございます。無事に育ってからのお話になされたら」
「では、讃良と同じくらいの十四、五になればもらおうか」
 と言い残し、中大兄は離れた。
 
 誌斐が、ふと高市の皇子を見ると、伊賀の皇子を、幼い眼差しで睨んでいた。
 この頃から、高市の皇子は、十市の姫を好きだったのである。
 後々の壬申の乱で、二人が争うことになる、運命の暗示であった。
   

← 前の回  次の回 → ■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections