十月、斉明帝の棺は、飛鳥へ運ばれ、殯(もがり)と陵への埋葬が行われた。当然、天智(中大兄)は、喪主として付き添っていた。他の皇族らも同行したが、讃良は、那大津に留まっている。つわりが、あったのである。 翌年の天智二年(六六二)、十七歳の讃良は男の子を産んだ。 知らせを受け、直ぐさま見舞う大海人、笑顔で赤子をみて、讃良にいう、 「でかした、讃良。王家の血を引く、男の子が、やっと出来た……」 すでに長男・高市皇子がいるが、母親は、皇族でなかったので、皇族の血を引く男の子を、大海人は切望していた。偽皇族の劣等感からである。
「この子の名だが、大津とするか。大津皇子(おおつのみこ)いい名だろう」 この地、那大津(博多)から採ったのであるが、驚いた讃良、 「そんな不吉な名は、いやです!」かたくなに拒否した。 「不吉……なぜだ?」大海人がきくが、 「とにかく、不運にあうような……。この子にはふさわしくありません!」 あきれた様子の大海人、しばし考え、 「この付近の地名は、草壁だが、草壁皇子(くさかべのみこ)、粗末な建物の、崩れやすい壁土みたいだが……」とつぶやく。 「その名でよろしゅうございます」すかさず讃良は応えた。 名が決まり、やれやれの大海人。 赤子に添い寝している讃良、 「草壁、草壁、私の命……お前を守る、守ってみせる」子を見てつぶやいていた。
翌年、隣の建物で、姉・太田も男の子を産むのだが、見舞いにきた、妹に 「殿は、この子に大津と名付けたの。大津皇子(おおつのみこ)、いい名でしょう」 讃良は、しばらく声を出せなくなるが……。
|
|