■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

吉野彷徨(U)若き妃の章 作者:ゲン ヒデ

第16回    斉明帝の死
 斉明帝が完成した朝倉橘広庭宮に移ったのは、五月初めである。
 その月の二十三日、眈羅(たんら・斉州島)の王子が来日した。半島の情勢激変で、今まで独立国家だった眈羅は、日本とよしみを通じようとしたのである。

 数日後、眈羅王子は斉明帝への表敬のため、朝倉宮へおもむいた。案内役に大海人と中臣鎌足の他に、余豊璋も同行する。そして豊璋の家臣・徳執得もいた。

 この頃、豊璋は忘れかけた百済語の再習得を、必死にしていたが、斉明帝に
「長年、この国の言葉で考える様になっておりまして、百済語を十分に話せるには、一年くらいは欲しいところで」
「では、来年の五月の帰国になされて、五千の兵を付けましょう」
「ありがとうございます」豊璋と執得はひれ伏した。

 豊璋が斉明帝との面談を終え、退出した際、執得が宮の番人に、
「井戸はどこに?」といい、腰の瓢(ひさご・ヒョウタン)を取り出す。
番人の案内で、井戸に行った執得、うっかりと瓢を井戸に落とし、手まわしよく、代わりの瓢に、汲んだ水を入れた。

 王子に同行し、案内した大海人と中臣鎌足は、王子らが帰った後も、宮にとどまり、斉明帝と密談する。二人とも、手分けして、各地の豪族に、出兵への協力を説得しに行ったが、とほうもない兵員と物資の供給を、みな渋った。
 大海人が、斉明帝にいう。
「母上には、もう一度譲位なされて、兄上(中大兄)が大王になれば、兄上の否応なしの勅命で、皆を動かせるのではないかと……」
「ならぬ! 入鹿を殺し、返り血を浴びた穢れは、二十五年経たねば消えぬ。いま大王になれば、皇統が絶える不運が、必ず起こる」強い口調で言い、しばし考え込み、
「この遠征での褒賞は、百済と新羅の民、土地、財宝をうなるほど手に入れられる、と言うのじゃ。欲で吊れ」
「はあ……」二人とも気のない返事をした。

 大海人が小用に出ると、斉明は残った鎌足に、大海人の出生の秘密を打ち明け、
「入鹿の身代わりに、大海人を育てたが、予知どおり大海人は、葛城(中大兄)を帝位に就けるため懸命に働いたが、何故か違和感がつきまとう……。大海人の秘密を世に漏らすと、もっとおかしくなりそうでなあ……。それから、お前に打ち明けたこと、大海人には内緒だぞ。分かると、お前を殺しかねん」
 それを聞くや、鎌足は
「では、古市大兄や(蘇我)倉田麻呂の謀反話を、皇太子に焚きつけたのは、ご自分の秘密を知る者を抹殺するためで!」
「おそらく、そうじゃろう、……それに、身近にいたわが弟、軽(孝徳帝)も、そのことを知っていたが」
「やはり、大海人の皇子は、先帝を毒殺し、おそらく秘密を知っている有間の皇子の謀反話も」
「だろう」

 翌日、退出のとき、井戸へ水を飲みに行った大海人が、井戸の底をのぞきこむ。
 近寄った鎌足、
「どうか、なさいましたか」
「汲み桶が底に落ちた音が、妙な……。何かが、あるのかと……」
「水は?」
「ああ、いま飲む」
 桶を掲げ、口に流す。
「冷えて、うまい! お前もどうだ」
 鎌足も飲む。彼もうまさに同感し、二人は帰り支度をする。

 瓢の中の猛毒が、水にとけだすのが、ちょうど一月後。女帝の周辺の者たちが倒れだし、やがて女帝も病んだ。
 知らせで、あわてて中大兄らが、駆けつけたとき、斉明帝は、か細く
「よいか、宮中の煩わしい儀式一切は間人(はしひと)に任せ、お前は、即位礼を延期し、征戦に専念せよ」
 言い終え、息をひきとった。七月二十四日であった。
 
 八月一日、棺(ひつぎ)が、那大津(博多)へ運ばれるとき、斉明帝の霊は、天界を、目指そうと、空へ上がったが、あの世の入り口が現れない。
 上から、哀れむような声がした、
「宝とやら、そなたは、歴史の流れに乱れを生じさせた。乱れが治るまで、こちらへは来れぬ。気長に待っておるしかないのう」
 この時、人々は空模様の異様さに気づいたという。
【是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠を著て、喪の儀を臨み視る。衆、皆嗟怪ぶ……日本書紀・第二十六巻末部】

 浮遊霊となってから、引かれるように行き先を大伴家とし、歌集(万葉集)に取り憑いた。
 斉明が霊界から許されたのは、百四十五年後、桓武天皇の死去のときである。     苦笑する桓武に、強引に同行しているとき、歴史の乱れとは、飛鳥から京都への遷都の順を狂わし、遅らせた、と斉明は気づいたのである。
 

← 前の回  次の回 → ■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections