うっそうと茂る木々の間の神聖な雰囲気に、参詣者たちは、心が洗い清められる気持ちになった頃、大海人は大宮司に話しかける。 今まで見かけた諸所の建物の老朽化が目立っているのを、たずねたのである。 すると大宮司、 「大王家の先祖神であらせられますのに、数代前から御奉仕がほとんど途絶え、我らは、神宮の維持に苦心しております。ぜひとも、陛下と日継ぎの皇子さまへ、ご奉仕の復活を御願い下さいますよう、お伝えを」頭を下げた。 大海人、困惑し、 「大宮司殿、お聞き及びと思いますが、母(斉明)は道教にのめり込み、兄は兄で、仏道(ほとけのみち)にのめり込んでおります。だが、確かに天照大神(あまてらすおおみかみ)こそ、もっとも大事な王家の守護神のはず……」 しばし考え、後ろに続く家来らに声をかけた、 「品冶(しなじ)、足麻呂、これからわが租の半分は、毎年、伊勢神宮へ納めるように」足麻呂は、伊勢における大海人の領地の管理人である。 「大宮司殿、今、わたしめが出来るのはこれ位のことで」大海人、頭を下げる。 大宮司は、すなおに謝る大海人に、すがすがしい好感を持った。
古代の高倉式倉庫の形式を伝える、皇太神宮の前に着く。 大海人は、階を上がることを辞退し、皆と共に前に敷かれた玉砂利に座り、儀式を見守る、と大宮司に告げた。 慌てて大宮司 「大海人の皇子、あなた様も神殿にお上がり下さい」 と言うが、大海人、 「嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと・糠手)に、『讃良と同伴で、神前に出ることはまかりならぬ! 天照大神は独身のお方。妬みを買って、別れるはめになるぞ!』と脅されまして」と、大海人は怯えた態をとる。実は、(偽皇族が上がることなぞ、以ての外!)といわれたのである。 大宮司(はて?)と首を傾げたが、(飛鳥の宮では、そう言い伝えられているのか)と思い、あえて上がることを勧めなかった。そして、神妙に控える大海人に、更なる好意を抱いた。 輿から下りた讃良が、勝手知ったるように階を上がりだしたので、慌てた大宮司、後を追う。
神殿の中では、王家の使いの姫皇女(ひめみこ)が参ったことを奏上する大宮司の祝詞が済むと、讃良は、神前に進み、女性の座方の片膝立てになり、祝詞を唱える。もはや讃良の意識は薄れ、先祖の伊勢の采女が、祝詞を唱えていたのである。 讃良の姿に、ぼんやりと古代の衣服を着た女人が、だぶって見えて、大宮司は息を飲む。すぐに菟名子夫人(うなこのおおとじ)と気づく。 祝詞が終わり、神鏡の納められた櫃が金色の光を漏らすと、大宮司は思わずひれ伏した。 すぐに意識を戻した讃良は、神に頭を下げ、神殿を下り、大海人としばらくの別れを惜しんだ。
これから大海人は二見浦へ出て、船で熱田宮を目指すのである。 讃良と残った従者らは、大宮司の心こもる接待をうけ、翌朝、誌斐が待っている宿舎へ戻った。
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