柿本の猿が、藤原不比等の屋敷を訪れたのは、三月中頃であった。 あわただしく吉野へ去るとき、讃良は、借りていた史記の数巻を返し忘れ、嶋から猿がことづかり、返しに来たのである。 で、いつものように、不比等の和歌に添削をしだす。熱心に聞いている不比等は十三歳である。 「若さま、この『乙女らが袖振る山の』は、わたしの歌の影響で」といい、手本にされた綴られた冊の、初めの木簡を示した。 「そうですけど。蘇我連子さまの娘さんの所へ行ったときにふと浮かんだのだけど、真似てはいけないの」 「いえ、『乙女が袖ふる』は常用句ですから……それにしても……」 木簡に書かれた二つの和歌を、猿は思案した。
『乙女らが 袖ふる山の 瑞垣(みづかき)の 久しき時ゆ 思ひき我は』 『乙女らを 袖ふる山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり我は』 しばらくして 、猿が言った、 「どちらも、歌集にお載せなさい。僅かな語の違いで、回想の近い遠いが表されるとはねえ。これは学ばせられました」 感心していたら、この屋敷に出入りする官人が、奥方さま(鏡女王)がお呼びで、と猿を誘う。 この男、表向きは不比等の学問の師であるが、実は、鎌足が諸家に放った草忍の元締めである。名を田辺史大隅という。 渡り殿をぬけた政所には、鏡女王が待っていた。 子に和歌を教えてくれている礼を言ってから、彼女はいきなり本題に入った。 「猿どの、そなたの主人・大海人さまは起つのか?」 「タツ……何のことで?」 「決まったこと、反乱のことじゃ」 「反乱!めっそうもない」 「隠すな……そなたなればこそ、うち明けるが、わたしの大事な一人息子・不比等の将来が案じられてなあ。勝つ側に付くにしても、争乱の中を生き抜くには、十三歳では心持たない」鏡女王は、ため息をつく。 横の大隅が続けて、 「私は、在所の山科へ、先帝の御稜造りのため戻るのですが、奇妙な命令をされました。行く者は全員、弓刀槍のどれかと、甲冑を携えろ、と。変な話でしょ」 「御陵造りに武装して?」おもわず猿は聞き返した。 「大海人皇子の反乱に備える、あるいは、皇子を攻めるためでしょう」 猿は驚き、考え込んだ。と、鏡王は、 「猿どの、この家は大ぴらには、大海人さまに荷担はできぬが、伊賀から東には、家来を里人にして三人置いているが、その者たちに美濃への脱出のお手伝いをさせたいが」 真剣なまなざしで見つめられた、猿、 「大殿が起つとしても、状況が悪うございますし……それに……」 大海人のパニック障害のことを言い出そうとして、あわてて口をつぐんだ。
それをみて大隅は、 「諸国の国司は、過重な賦役を命ずる今の朝廷より、大海人さまに好意、というか希望を持っています。朝廷の味方をする者は少なく、遠国は中立を決め込むでしょう。吉野に留まるより、美濃へ行き、そこで天下に号令すれば、周辺の国司や豪族らが参集し、乱に勝てると、われらは見ています。だが、月日が経てば、先帝の御陵造りの名目で、朝廷に集められる兵数が膨れあがる。そうなると、東国へ行くこともできず、大海人さまは吉野で滅ぼされますぞ。それも半年後。だから四ヶ月以内に脱出しないと……」 「四ヶ月!七月まで……」おもわず猿は呻いた。
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