二十四歳の大友帝は、内の御座所で、にこやかに、子の葛野皇子・二歳を抱え、頬擦りをしている。 「どうじゃ、十市、夏に、葛野をつれて、義父のいる吉野へ、避暑に行こうか」 「それはいいですねえ」微笑んで、側の十市が答えた。 舎人が、入ってくる。密かな大海人の配下の、物部連麻呂(むらじまろ)である。 「陛下、左大臣(蘇我赤兄)と尾張国守(小子部キチヒ)が参上されております」 「さようか」子を十市に預け、大友帝は表御座所へ向かった。
御座所では、赤兄と四十代の男が控えていた。 「陛下、小子部の申し入れをお聞き下さい」赤兄は、ひれ伏した尾張国司に促す。 顔を上げた、国司は、大友帝に付き従う舎人を見て、困惑の表情を浮かべた。 物部麻呂が気を利かせ、下がろうとするが、大友は言う、 「この者は、信頼している舎人だ。気兼ねせず話せ」 「では……、先帝の御陵造営に、我が尾張からも人夫を派遣しますが、その者らに、こっそりと武器を持たせたいのですが」 「武器を?……どういうことだ」 「戦乱に備えるために」 「戦乱?」 赤兄が口をはさんだ、 「朝廷に反感を持った者たちが、大海人皇子に心を寄せております。もし皇子が起ちますと、……戦乱を起こさせないよう、皇子の地盤・大和の地の支配と監視を強化しておかねばなりませぬ。大和へ兵を出すとなると、この近江の守りを固めるため、諸国から兵を集めねばなりませぬので」 「叔父が軍を率いて反乱をおこすとは、考えられぬが……」父・天智から、戦場での指揮を大海人が出来ないことを、聞いていた。 「確かに、大海人皇子は、戦さで軍を率いて指揮する経験は皆無で、それを勧められても怯える有様でしたが、諸国の豪族らには、人気があります。豪族らが結束して大海人を担がぬとも限りません」 「叔父がなあ……」人懐っこい叔父の姿を思った。
大友帝は、しばし考え、 「あからさまに兵らを集めると、叔父は危機感を抱いて、どこかに逃亡するのではないか」 「おそらく所領のある美濃(岐阜県)を目指しましょうな。そうなれば、この小子部殿が、途中で待ちかまえ、討ち取ると申しております。大海人さまが、おとなしく吉野で仏道の修行をなさればいいのですが」
「兵らに、武器の携帯をさせず、荷駄で分からぬように運べ。万一の場合以外、武器の箱を開けさせるな。臆病なところがある叔父が知れば、どう動くか分からぬ。へたに動かれると、舅殺しをするはめになる」大友はため息をついた。 控えていた尾張国司が、言う、 「陛下、奇妙な噂を聞きました。天照大神が大海人皇子の守護神となられ、帝位に就ける、と伊勢神宮の大宮司が周囲に言いふらして、伊勢の国司がそれを止めるのに慌てたとか」 「伊勢の大宮司が……?」 「なんでも、鵜野の讃良姫のことがあって、それを言い出したとか」 「姉のこと?」 「前に、 嶋皇祖母命(しまのすめみやおやのみこと・糠手皇女)さまの名代として神宮の参内した際、姫の祝詞に大神が感応して神鏡の櫃が光った不思議があり、大宮司が見て、そう信じたとも」 「姉に、そんな神懸かりなところはないが」 「陛下、那大津の本営で神懸かりになられましたが」赤兄が思いだして言う。 「赤兄よ、あれは叔母の演技だ。父が苦笑いして、明かしてくれた、ははは」 「左様でしたか」 「……だが父は、姉が考えついた新羅奇襲策を、採らなかったことを、ずっと悔やんでいた。『もし、あのとき、新羅を攻めていたら、……』ともらしていたが、……それにしても、姉が反乱を叔父にたきつけたら……、まさかとは思うが、監視の目をそれとなく強くせよ」命じて、大友帝は不安を覚えた。
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