大海人一行が、凱旋し、なつかしい飛鳥に、足を踏み入れたのは九月十二日、吉野を脱出してから二月半であった。すぐに板葺きの宮跡に新しい宮が造られる。飛鳥清御原宮(あすかきよみはらのみや)である。
即位した天武天皇(大海人)は、讃良を皇后にして、諸政策を相談しながら、ここから多くの勅令を発し、精力的に中央集権国家を作ろうとしたのだが、独裁的に命令を発するには限界があり、唐に倣い、整備された制度と法律での法治国家(律令国家)を目指し始めるのだが、中途で亡くなり、持統(讃良)が引き継いでいくのである。
……当初から、この朝廷は、家族経営の個人事業の形態であった。経営方針は、天武と大后の讃良が決め、臣下らは、命令に従って働く従業員という形を強要し、当初は、進める改革に諫言した、オミ王たちを流刑にするという独裁を示した。 後には、成長した皇子らが、政策に参画する形を取ったのである。 だが、家族経営を取ったことにより、後継者問題で、有能な大津皇子が犠牲者となる悲劇が、起こるのだが、…… 第三章(大乱の章) 終わり
予定の大后の章の前部を分けて、大乱の章にしました。続きは難航しています。
|
|