上杉征伐の途上、七月十七日、案の定、三成が誘った西軍が結成された。それからまもなく、伏見が攻め落とされた。 その知らせを聞いた、家康の率いる上杉討伐軍は、根回しが効いて、一致団結して、家康に従う東軍となって、西へ転進した。 江戸に留まり腰を上げぬ家康に、岐阜城を攻ようとしている東軍の諸将の、出陣の請願状が届くが、家康は、無視して動かなかった。 謀臣・本多正信が心配して、書状を諸大名へ下ためている家康の前に伺候する。 「大殿、そろそろご出陣をなさいませんと、諸将が動揺しますが」 筆を止めた家康は、 「正信、岐阜城の主は誰だ」 「信長公の嫡孫・秀信ですが?」 「(福島)政則ら、豊臣恩顧の武将らと、どのような縁(えにし・関係)がある?」 「主筋に当たります。……ああそれで」 「わしの指揮で、攻めたら、福島政則などは、主筋を攻めるのに恥じる気が起ころう。その後で、秀頼公が三成に引き出されて、出張ってきたら、あやつらは、どう動く。戦わずして、恭順されれば……わしは、それが怖い」 「諸方に工作しておりますので、そのおそれは有りますまい」 「いや、戦には思いもせぬことが起こるのが常、わしが三成なら、何としてでも秀頼公を出陣させ、千成瓢箪をひけらかす。今のわしは、薄氷を踏む思いでいるが、策を考えねば……村瀬を呼べ。 「あの、融通が利かない実直者を?」 「よいから、呼べ」
家康からの使者になったその男が、西軍の諸将の前で、 『貴公らの馳走が少ない(働きぐあいが弱い・すなわち信頼できない)から行けぬ』と伝えると、福島政則が立ち上がり、使者に扇をあおり、 「ならば、大いに馳走いたそう」といい、翌日から、猛攻撃をし、岐阜城を陥落する。 これによって、家康は、東海道を西上する。で、世子・秀忠は徳川本隊を率いて、中山道を進むのであるが、西軍側に付いた真田昌幸に翻弄され、関ヶ原の戦いに間に合わぬ大失態をするのだが……。 そんなことになるとも思いもせず、西上中の家康、休息時、本多正信の息子・正純を呼んで、なにやら指図する。ところで、父・正信は秀忠付きで、中山道を進んでいるはずであったが…… 正純が、退り、休息を終えた、軍勢は進み始める。 家康は、輿に乗っていて、先ほどの正純の受け答えの良さに感心し、ある連想をする。 嘆いた風情の家康を見、側近の旗本が、 「大殿、いかが、なされました?」 「うーん、この年の老体で、軍の指揮をせねばならんとはなあ……息子がいてくれたらと思ったが」 「世子(秀忠)さまとは、すぐに落ちあえますが」旗本は不思議そうに話す。 「いや、あの者のことではない。信康のことだ」 ため息まじりの家康を見上げ、男は声を失った。
揺られる輿の上で、家康は熟慮している、 (持統女帝の手紙を渡してから翌々年後、信長は、武田の工作に簡単に乗り、信康を殺せと命じてきたが、なぜ?……ああ、そうか、信長はわしを恐れていたのだ。自分の天下を奪いかねぬ わしから、優れた片腕の信康を切り落としたということか。……前世は前世、現世は現世と、信長は割り切ったか) 前にはためく、厭離穢土、欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)の旗印を見つめる。
美濃の赤坂で、落ち合う秀忠軍が、到着していないことに驚愕した家康、 (やはり、子の高市に全軍を託した天武帝とは違い、大友の皇子の生まれ変わりのわしは、一人で全軍を指揮する定めか)秀忠軍を待たずして、決戦をする覚悟をきめた。
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