聖武帝の怒り 家持が内裏に戻ると、巡幸を中止して、帝の一行は帰っていた。 親王の帳の掛かった寝所の中で、聖武帝と、生母の県犬養広刀自夫人が、泣き伏していた。 その後ろで、光明子皇后は、なぜか泣くのをがまんしているように見え、23歳の阿倍内親王(後の孝謙、称徳女帝)は、泣いてる。 (女性の髪型、服装は竜宮城の乙姫様を想像して貰いたい) 仲間の内舎人等は、後ろで控えている。
家持も其処へ控えた。 しばらくして、がっくりした様子の仲麻呂が、戻ってきた。 泣き疲れた帝は、仲麻呂を認めると、ゆっくりと近づき、仲麻呂の顔を叩き、胸ぐらを掴み、怒り狂った。 冠を飛ばされ、顔を下げたままの仲麻呂に 「なにが、最先端の気学の方位術だ。わしの大事な息子を返せ。なにが、不幸に会わぬ方位だ。でたらめな事を信じ込ませおって、安積を返せ、返せ」 そーっと、光明子は帝に近づき、 「お上、こんな事に成ったのは、仲麻呂のせいではありません 、それに仲麻呂は念を押していたでしょ、同じ年生まれの私たち二人だけの吉方向、しか計算できないって、人数が増えると吉方向が一致しないて、それに夢で、姉様や長屋王様にうなされることがなくなったと 喜んでいたじゃない」 しぶしぶだが、聖武帝の気が静まった。
毒殺疑惑 「おおそうじゃ、医師(くすし)かな、僧医かな、どんな病で亡くなったか知りたいが、どこにいる、連れて参れ。話を聞きたい。ん、どうした、仲麻呂 」 苦しげに仲麻呂は答える。 「その男は、どこかへ逃亡しました」 「逃亡だと、どういうことだ」 「それが、治療に失敗した責任を取らされるのを怖れた、と思います」 「ばかな、治療しても亡くなるものは亡くなる。それを、いちいち罰していたら、医者なぞ、誰もなり手がない。本当のことを言え、まさか、お前毒殺したのでないのか」 仲麻呂は滅相もないと言い、何度も、逃亡したと言い張る。 天然痘 しびれを切らした帝は、平伏したままの仲麻呂の佩刀を奪おうとした。慌てて皇后が止めようとして揉み合う、 「邪魔をするな、こいつをたたっ切る」と帝。 なおも、刀を離さない皇后に、帝は口走った。 「藤原の者共の腹の中は、お前の厚化粧の下の痘痕(あばた)のように 汚い」 急に皇后の手が放れる。皆、息を飲む。 帝は、しまったという顔をする。 皇后は泣き叫ぶ 「ああ、そうですよ、私は醜い疱瘡を持っていますよ。長屋王様の呪いでしょうけど、悪いのは死んだ兄達。私が何をしたっていうのよ。鏡を見るたび、生きるのがいやになる、そうじゃ亡き基(光明皇后の子)の生まれ変わりの安積と一緒にあの世へ行きたい、仲麻呂を殺す前に、妾を殺せ、殺せ。ああ基、基、基」と言って泣き伏す。 【天然痘、古来から人類を苦しめていた疫病、たまたま皇后の兄弟4人が流行期に亡くなり、7年前謀殺された長屋王一族の怨霊のなせる仕業、と噂されたが、この病が治っても、痘痕が残る者もいた。まさか、伝説とは逆に、光明皇后に瘡蓋があったとは、皮肉である。】 でみかねて進み出た家持が、一部始終を述べたのである。 (進み出るのが遅すぎたと、押勝は恨んでいたかもしれない。) 帝は、嘆息する、 「朕の子は皆なぜ不運にあうのか、この安積は針灸医に掛かりながら、針灸を受けられず、基(夭逝した)は幼児なのに立皇太子させた天罰で亡くなるし、ああ」 阿倍内親王 若い娘の声がした、 「皆のもの、母の秘密は、絶対誰にも喋らないでよ。さあさあ葬儀の用意を、頼むわよ」 若き阿倍内親王である。おもむろに3人の処へ寄り、母には 「お母様、泣いているとお化粧が剥げて痘痕が見えますよ、もう泣かないで、泣かないで」 と無遠慮な言葉。父には 「皇太子は安積が18になったら交代して、皇族の誰かを婿に迎える話はどうなるの、まあ後で考えてね、困まったわ」 でも困った顔をしていない。 転がっている仲麻呂の頭巾を拾って、顔を上げさせ、被せて 「ああ、鼻血が出ている、涙と鼻血で男前が台無しじゃ」 懐から懐紙を出し、拭こうとしたら仲麻呂が遠慮する。 そおっと仲麻呂の耳に囁く 「わたしとお前の仲じゃない、遠慮しないで」 家持の地獄耳は、それを捉えていた。
宴の和歌 「すごい話ですね、あの頃からお二人が出来ていたとは。驚いた 」と山部。 誰もが同意する。 「絶対、他言無用だよ、君を信用したから話すんだ。…だがなあ、あの時、安積親王様が亡くなっていなかったら、ああー」 娘が言う 「やあね、また始まった、昔の繰り言が。安積親王様のことは、いい加減あきらめたら。20年も前のことでしょう。それより、ここにしろしめす山部の帝に賭けたら」 「あこ(我子)袖にしただろ、この帝さまを」 弟、永主(15歳) 「山部様、帝になって20人のお妃を持つんだって。食事がたいへんだろなあ」 なんと無邪気に言う。皆が笑い声を立てる。
「では、薩摩赴任の旅立ちと山部王を招いた、宴の和歌を詠おうか」 家持が3首詠う。さすが優れた和歌である。次に娘、夫人、永主、家来までが詠う。 最後は山部である。苦しみ抜いて考える。初めての和歌はやはり下手である。 でも、聞き終えたみんなは笑わない。努力を誉める。いい人たちである。 「さっそく、みんなの和歌を控えておこう」 なにやら木簡に筆を探して、書いている。 「私のへたな和歌も、歌集に載せるんですか」 「考えよう」 「困りますよ、末代なで残るなんて」 横から娘が 「大丈夫ですよ、山部様、『大伴邸の旅立ちの宴にて、緯(いみな…今上陛下)山部王の時、初めて詠う』と詞書きを付けたら、へたでも値打ちがでるから」 「また、それですか、夢のような話を」あきれる山部。
現代と違って早寝早起きの時代。早く床につく。 部屋へ立ち寄り、家持が 「娘の寝床はあちらの建物だよ」意味ありげに指さす。 夜這いを勧める父親があるかと、呆れていると、佐保山のシカの鳴き声を聞いていて、いつの間にかまどろむ。
守護霊斉明帝 その頃、山部の寝所の隣の建物は家持の娘と弟、永主が寝ている。 娘は入り口の戸につっかい棒を掛けていた。 山部が夜這いに来ないためであったが、眠れぬ娘は起き出した。 なんと自分が山部の寝床に忍び込もうと思ったのである。 やはり惚れたのである。お妃が何人出来ようと気にしない覚悟になった。 寝床を離れようとした時、女性の声がした。母親ではない。 「行ってはなりませぬ、堪えてくだされ」 「なぜでしょうか、宝の姫尊(斉明女帝)様」娘は心の中で叫んだ。 多数の金片が垂らされた宝冠を被った老婆が、幻のように、娘の目の前に現れた。 揺れた金片が音を鳴らす。 「うっとおしいのう、この冠は」婆さん、冠を脱ぐ 「そなた、わらわを知っていたのか」 「幼い時からあなた様の存在を感じていました。和歌集の守護神をなされているのでしょう」 「気づいていたか。実はな、そなたの予知の力は、妾が付けてしまったらしい。覚えておるかな、そなたが3歳のころ、歌集の巻物を持ち出して竈で燃やそうとしたことがあった。慌ててそなたの頭に我が手を入れて気を失わせたが、どうもその時に予知の力が目覚めたらしい。済まぬ事をした。予知の力さえなければ、山部と一緒になっても問題はないのじゃが」 「予知の力があると、なにか差し障りがあるのですか」 「普通の男なら問題はない。そなたの予知で幸運か不運になろうと歴史には影響はせぬ。だが山部は困る。あれは困難に全身全霊で当たって時代を切り開くのが課せられた天命じゃ。そなたが妃になると、楽をしてそなたの予知に頼る。それが始めは正しい道のようじゃが、その先は国を誤ることへ続くのじゃ。予言などに振り回されたまつりごとは破滅に向かう。私が良い例じゃ。なまじ予言が出来るから、それでまつりごとに利用したら、身内の殺し合いや後々の百済救援の出兵の大敗、壬申の乱、今の大仏造りの被害まで影響してきておる。山部には、真面目に国を建て直してもらいたい。そなたには不憫だが、堪えてほしい」 娘は泣き出した。 「そなたを幼いときからずっと見守っておったから孫のように思っておる。すまぬのう。さらに酷なことじゃが、頼みがあるが」 頼み事を話してから消えた。 誰かに話をしているのが、漏れて聞こえ、 「シキのミコそなたの孫が…」静かになる。 娘は不思議とすぐに眠れた。
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