再度、幻の大阪城
有間、次の話を切り出す。 「叔母上。今行っている大事業ですが、使われている人夫たちが、どう言っているかご存じですか」 「どうとは?」 「運河を、狂心の渠(たわむれごころのみぞ)、そこから運ばれた石の山丘は、崩壊ものよ、と不平不満を言いながら、危険な重労働で苦しんでいます。いったい、何を造っておられるのですか」 「水を貯めた神殿をつくるのじゃ。国の繁栄を祈る儀式の場じゃ」 「そのようなもの、なぜ必要なのですか」 「ある考えのためじゃ。……そうじゃなあ、ちょっと待て」 隅にある櫃から、二枚の紙片を取り出して来る。 「どうじゃ。この絵を見ろ」 一枚は大阪城、もう一枚は壕まで描かれたその全景図であった。 「あら、婆さま、二年前、私に描かせた、幻じゃない」讃良驚く 「いや、お前は幻を見たのではない。わしの念により、遥か未来からきた、あの若者の記憶が移ったのじゃろう」
きれいに色付けもされた絵を見て、有間 「この壁の絵は、噂に聞く虎という動物でしょうか」最上階の壁絵を示す。 「そうじゃろう」 「この建物の高さは?」 横から讃良が、 「えーと、この下の石垣が、大人四人の高さだから、上までだと、十八丈(五十五メートル)くらいじゃないの」 「十八丈! すると全体の縄張りは、……アア……」もう一枚の全景図を見て唸る。 「叔母上、まさか、こんな、とほうもない城塞を造る気ですか」 「いや、いまの技術だは、とても、出来まい。じゃがな、もしこれが、百済の都だったら、どうじゃ」 「難攻不落でしょう。新羅も唐も、手が出せませんでしょうね。ですが、いかに我が国より、城造りが進んでいる、百済とて、こんなものを造るとなると、民が疲弊してしまうのでは」 「そうじゃ、この様な城は、その時代の技術の粋を集めて造られる。これが造られるのは、はるか千年後であろう。だからといって、今、何もしないわけにはいかぬ。今の技術でも、修得した多くの石工や大工を増やして、開墾や灌漑で、国の力を高めることもできよう。とにかく、多くの者に、新しいことを学ばせることで、この国の未来が切り開ける」 「なるほど、そういう遠謀でしたか。……では、さっそく、ふさわしい温泉地を調べてきます」 有間は退出した。 残っている讃良が、叔父大海人皇子の出生のことをたずねると、 「父親も生母も亡くなった、赤子の大海人を、可哀想にと抱いたら、不思議な幻を見た。……大きくなった、この子が、わしがこれから産む子を帝位に就けようと、悪戦苦闘している様が見えた。わしはどうしても、皇位に就ける子どもが欲しかった。だから、その後押しをするかもしれぬ大海人を、子として育てた。だが……確かにそうなりそうだが、なぜか不安でならぬ。あまりにも周囲の犠牲が多い」 「まさか、犠牲って、入鹿、や古人、山田麻呂の爺様なの」 「そうじゃ、お前の母もそうかもしれぬ。それに……、軽(孝徳帝)は、大海人に毒殺されたかもしれぬ」 「ええ!」 「確証はないがな。我らが難波から出た時、大海人の家来が、難波に残り、弟(孝徳)と繁く会ったいたそうじゃ。ああ、そんな話は、もうよそう。邪推してもな」祖母は、話を切った。
白浜の湯で、恋患いが治る? 斉明帝の指示どおり、有間は、恋患いのそぶりを、し始める。 自分の邸宅でも、時折ためいきをつき、「ああ讃……」とつぶやく。 家臣らが、心配するが、理由を話さない。 「気晴らしができる、どこか、いい温泉はないか」の問いに、家来らは数カ所の湯治所 を答えた。 その中で、(むろ)の湯(現在の白浜温泉)が、湯治の地に選ばれた。 南紀の紀伊水道側に突きだした半島にある温泉地が、世間に知れず、こっそりと同盟の儀式ができると判断したのである。 百済の滅亡寸前の朝鮮半島の情勢で、自国も、と高句麗は危機感を抱いていた。 日本との、連携で、新羅と唐に対抗すべく、日本に盛んに工作をしていた。 日本側の交渉担当は、安倍一族の者と、大海人皇子であった。 九月に白浜温泉に行き、十一月ごろに、戻り、諸臣控える中で、有間、斉明帝に報告する。 「いやあ、あの温泉は、いい湯でした。それに、色々な奇岩の海岸に、青い海からうち寄せる波の砕け散るさまは、素晴らしかったです。それを見ていたら、悩み事は、すっきり消えました」 「おお、そうか、一度わしも行ってみたいのう。大海人よ、検討してくれぬか」 斉明帝に、大海人、答えて 「母上、行事が詰まっていまして、そうですなあ……来年の十月ごろ、にしましょうか」 「ああ、それでもよい」 かくして、八人だけで秘密に来日した高句麗大使・賀取文らとの間で、高句麗との秘密同盟の交渉が、進んでゆき、同盟の儀式が、白浜温泉で行われることになるのである。 白浜への行幸の途中で 翌年の、その白浜温泉への行幸の途中、輿のうえでも、座所でも、しきりに斉明帝は嘆いていた。 五月に、孫・建、六歳が亡くなったのである。 哀悼の和歌を作っては、唱った。 (皮肉屋の筆者は、秘密同盟を隠すための、芝居がこじれて、本気になったか、と思う)
行幸についていた大海人、途中の泊り屋で、家臣と話す。 「(蘇我)赤兄は、間違いなく有間の屋敷に通っていたのだな」 「間違いありませぬ。月に二回でしたが、配下によれば、今は、ほぼ五日に一度、ご機嫌伺いに、行っております」 「では、有間は気を許して、赤兄に嵌められるかな。上手くいけばなあ」 「若、御妹、アアではなく、姉上さま・間人皇女さまですな、が、宮中に留まっておられますが、赤兄が、有間を護送するとき、付いてこられませんか。あの方が、皇太子さまや、陛下に懇願なされれば、許されるかも……」 「わが秘密は、世間に知られたくない。なにがなんでも、有間には、死んでもらう。姉は、どこかで離してしまわねば、どうしたものか……」 思案する大海人。 「そういえば、讃良姫は、うまく、吉野離宮の視察に行かせましたなあ。あの姫様が、陛下や皇太子の前で、泣きわめいたら、御計画が破綻するかもしれませんでしたな」 「あの姫が、いちばんやっかいだったが……。二人は出来ているのか」 「いえ、まだ生娘でしょう」 「生娘か」ふーん、というような顔を、大海人はした。
最初の幻聴 同じ斉明四年(六五八)の十月末、讃良姫の乗った輿の一団が、伊勢街道を吉野川に沿って、上流の方へ向かっていた。 造営されたばかりの吉野離宮への、斉明帝の名代としての視察である。 総勢十五人ほどで、馬と、徒(かち)の者がついている。 吉野の山々は、紅葉を終えはじめている。高地での、肌寒さを、皆は感じていた。 山里のお社の井戸端での休息が取られる。 馬から、皆が降りて、村人が世話をする。 「爺様、疲れちゃった。離宮はまだなの」 輿から下りた、讃良が、案内の老郡司に話しかける。 「姫さま、もう少しの辛抱でございます。あと一時(二時間)もすれば着きますから……アア、お水を」 渡された竹筒を飲んだ、讃良、 「婆ちゃまたちは、紀伊の温泉に行くのに、私だけ、なぜ、ここへ来なければならないの。いやになるわ」 お付きの侍女・志斐が、 「しかたがありませんわ、姫様。物見遊山に見せかけているけど、行幸の本当の目的は、高麗(こま=高句麗)との秘密の約定のためでしょう。新羅に知られないため、皇太弟(大海人)さまが苦心して設えた、ご計画ですもの。姫はこちらへと来るのが、お役目。ちゃんと果たさなければ」 「はいはい、でもねえ……」讃良が不満そうな顔を見せると、老人 「姫様、離宮では、おいしい料理をこしらえておりますし、帰りには近くの温泉にも、案内いたしますので、はい」
讃良は南の古道の向こうから近づく、一人の行者を見付けた。 「爺様、あの者は何者なの」 「ああ、あれは山岳での修行僧でございます。たしか役小角(えんのおつぐ)といいまして、山々を駈けて、悟りを得ることに務めております、はい」と、老人。 やがて行者が、間近に来て、ひれ伏し 「お恐れながら、陛下の孫姫さまと聞きまして、参りました。献上するような物ではありませぬが、葛餅をお召しくだされませ」見れば、日焼けした顔に眼光のある若者である。 笈から出した小籠を差し出す。 「それはそれは、喜んでいただきましょうよ。姫様」と、付いてきている侍女・志斐 姫が、若い行者(歴史上、最初の行者である)に頭を下げ、小籠を受け取ろうとすると、 山伏、姫の顔を見、顔の表情が驚きに変わり、大仰に 「ああ……偉大なる、未来の女帝陛下、間近でご尊顔を拝し奉るとは、畏れ多いことでございます」 恭しく小籠を渡すと、ひれ伏したまま動かない。 姫、ぽかーんとして、伏した若者をながめる。 侍女、志斐、 「あらあら、そなた様、なにを血迷っているの」あきれ顔をする。 郡司は、 「これこれ、小角(おつぐ)、そなたは姫様を見て、何を感じたのじゃ」 「郡司様、この姫様が、御高座(みたかくら)にお座りになり、威厳を持って、臣下等に御指図をなさるお姿が、にわかに浮かびまして」 「姫様が、将来、女帝様になるなんて。やんちゃな姫様が、威厳ねえ、ほほほ」志斐は笑う。 「小角(おつぐ)よ。褒めそやすもいいが、めったなことを言うてはならぬぞ」 と、郡司は叱った。
讃良が、口をひらく 「そなたは、寺の僧なの」 「人々の病を治す法力を得るため、元興寺で学びましたが、なかなか満足できず、実践として山岳で難行苦行を重ねております」 「で、人の未来が見える力を、得たの」ふと、祖母を連想する。 「いえ、まだ何も得ておりませんが、今初めて、幻を見ました」 これより金峰山に参りますのでと言って、若き役小角(えんのおつぬ・役行者)は去っていった。
「志斐、これ食べる?」讃良は、小籠を志斐に見せる。 「ああ、少しだけですから、姫、食べてしまわれたら」 無心に、くず餅を食べている姫を見て、志斐は 「姫様、大きくなったら誰の嫁になりたいの。好きな方は、いませんか」 「好きな人ねえ。……有馬の皇子さまがいいわ。憂いを帯びたあの表情が、たまらなくいいわ。何とかして上げたくなっちゃう」夢見心地の風情を見せる。 「ほほほ、十九の男に、十四の姫が、母性心をくすぐられましたか」志斐ほほえむ。 (有間の皇子様の、妃になられるとして、有間様が帝に、とはとても……。だとしたらあの若者の占いは、はずれているわ)志斐は、気にもしなくなった。 一休みを終えて、郡司は、 「そろそろ、行きましょうか。川上が、南に曲がっておりましょう。川を上がって行くと、新しく建てた離宮がありまする。あの山が、水分山、水を司る神がおられるといわれています。 離宮からは、ちょうど南に望めるよう、設えました。はい」 山並みが重なる向こうに、眺める小高い峰(青根ヶ峰)を、老人、指し示した。
離宮というと、大仰に聞こえ、後の吉野離宮は、大きな規模に造り直されたが、二年前、にわかに斉明帝が、造営を命じた、離宮は、夏の避暑のための別荘群で、こじんまりと数宮が建てられていた。 真ん中の建物は、高床式の神殿風で、老人が言っていた通り、中から外へ出る階の真南に、水分山の峰が望めた。 夕刻に出された食事に満足して、夜はぐっすりと眠った讃良、朝起きて、侍女に連れられ、階を下りる。別棟で、諸用を終え、食事を済ませると、周囲の村々から、参内者が来る。その相手を終えたのは、昼近くであった。 で、真ん中の建物に戻る。 「ああ、みなの相手をしていたら、疲れちゃった。志斐、何か食べ物、ない」 「山葡萄をもらってますが」 「それ頂戴」
もらったブドウを手にして、ぶらっと、南面の階近くに出て、房ごとかじるように、一粒ずつ口に頬張る。 「姫様、皆に見られます、不作法ですよ。内でお食べ下さい」後ろから志斐の声。 「ああ、わかったわ」と言い、食べるのをやめ、ぼんやりと山並みを見る。 空は曇りで、雲の向こうに、お日様の光を感じる。 かすかな風を感じて、小声で 「♪人はただ一人、たびに出て……」 『風』を歌い出した。志斐には、聞こえなかった。たとえ聞こえたとしても、当時の人間には、不思議な呪文としか、理解できない。 歌う途中で、不思議な声がした。あのカメラマンの声である。 (えーと、有間の皇子は、謀反の意があると、蘇我赤兄にはめられて、殺されたのか。歳が十九歳、紀の湯から、引っ立てられ、藤白坂で絞殺されるのか。可哀想になあ。……あれ、「間」を「馬」と書いちゃった。有馬温泉で生まれたから「馬」でもいいか。次は、……) 自分の頭の中で、独り言を、あの雷神の若者が言っている。(次は)で声が消えた。 手にしている、山葡萄の房を、落とし、振り返り 「志斐、すぐ、帰る。大変なことが、起こる。有間さま。有間さま……」空(くう)を見て、讃良は呻いた。
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