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吉野彷徨  (T)乙女の章 作者:ゲン ヒデ

第3回   3
                 讃良の小さな異変         

   祖母と孫は、初夏の日差しの中、ヘリの消えた北の空を見つめていた。 
「未来の世界へ戻ったか」しらず祖母は、涙を溜めていた。

帰りかけて、孫に
「ついでに寺で、エミシとイルカの供養をしてもらおうか」
 袖で涙をふく。
 ふたりは、近くの飛鳥寺へ向かった。

 行く道、ふと斉明帝、懐の名刺を出したが、紙は、風化するように紙粉に変わり、手からこぼれ落ち、昇華するように消えてゆく。

 孫娘、覚え立ての歌を上手に、歌っている。だが、千数百年後の発音では、意味不明である。
 手をはらいつつ、賢い子じゃなあ、と祖母感心する
「婆ちゃま、不思議な唄い方ねえ。意味は……」
 急に立ち止まり、ぼーとした状態をし、すぐ正気になり
「ピトパ タァダピトリ タァピニ……プラタナスノカレパマウ……カゼガ プィテルダケ」
  当時の飛鳥時代の発音で、歌いきった。
「讃良や、どうして分かるのじゃ」
 祖母は驚いた。はっきりと意味が判ったのである。
「さっき、何となく、判ったの」
「まさか!」祖母は、食べた物が消え失せて、孫に何かが起こったのかと思う。
「体に、何かおかしいことはないか」
「べつに……」
 何気ない孫娘の顔を見て、ほっとし、
「プラタナスって何かのう」
「異国の木かなあ、楓みたいな葉の、道に植えられる並木よ」
「なぜ、判るのじゃ!」
「そんな姿が、浮かぶの。ああ、婆ちゃま、『そこには、ただ風が吹いているだけ』てどういうこと?」
「うーん、深い人生の感慨があるのう……。ああ、歳を取ったら分かるようになるさ。讃良(さらら=後の持統天皇)お前の人生はこれからじゃ」
  これから波瀾万丈の人生を送る、この十歳の少女に、この歌の実感に気づくのは、晩年の時になる。
          
  

                      中大兄皇子登場
 飛鳥川に架かる橋を渡ろうとした時、 道のむこうから、父、中大兄皇子が、数騎の手勢を率いて来る。
 馬から下り、かけよる。
 二十九歳の皇太子は、面長の顔で、頬はややそげ、眼光がするどい。
「母じゃ、ご無事でござったか。怪しげなる物の怪が、空から降りた所に、母じゃが行かれてたらしいと聞いて、心配しましたぞ。物の怪を仕留めて見せましょう。どこへ隠れましたか」
  弓をつがえて、きょろきょろする。
「父(とっ)ちゃま、間違って人に当てたら大変よ。危ないから仕舞って。……雷神さまは帰ってしまったのよ」
 内心、(父は、おっちょこちょい、だなあ)と讃良は笑った。
「おお讃良、お前見たのか。雷神だとな。うーん……何の兆しか?」
 矢をえびらに納めつつ、考え込む。
「これ! 葛城(中大兄皇子の名)、飛鳥寺で、エミシとイルカの供養をするが、お前も付いてこい」
「エミシとイルカの……? まさか雷神は……」
「そうじゃ、二人の霊らしい。可哀想なことをして。全くお前は、軽率な男じゃ。実の兄を殺してしまうとは」
「母じゃ、いつも云うが、もっと前に、そのことを明かしてくれていたら、良かったのに」
「異父の弟のお前を皇尊(すめらみこと)にしよう、と入鹿が思っているのが、世間に知られては、まずいことになるから、明かさなかったが……。入鹿は古人に肩入れしてると、大海人が、お前に不安を焚きつけていたとはなあ」
 
 古人大兄皇子は入鹿の従兄弟にあたり、世人は、蘇我氏がこの皇子を次帝に推戴するとばかり思っていた。
 が、古人の義母の皇極(=斉明)女帝が、中継ぎで即位した事情には、蘇我エミシが、将来、息子の異父弟・中大兄皇子を帝にし、入鹿を宰相にして、国の将来を託そう、と考えたからであった。
 エミシと斉明帝の間には、入鹿の母親が斉明帝であることを内密にする約束が、別れる頃からあったのである。

 続いて馬から下り、近づく一人の壮年の随臣が、うやうやしく斉明帝に礼をする。
 温和そうな顔をして、あごひげを短く整えた、中大兄皇子の謀臣・中臣鎌足である。
「おそれながら、陛下、入鹿が、陛下のお子とは、何かの間違いでは」
「鎌足、お前、入鹿と学友であったろう。葛城と面差しが似ていることに気づかなかったのか」
 共に、南淵請安の私塾で学んでいた時、入鹿は鎌足の才を認めて、自分の配下にと勧めたが、鎌足は辞退したのである。
「そうえば、どこか……」鎌足、中大兄皇子の顔を見て、驚いた表情をする。
「日頃、腹黒いことを考えている割には、感が弱いのう」あきれた斉明帝。

「婆ちゃま、早くお寺に行こう」
 桟橋の姿の橋の上で、孫娘がせき立てる。
 

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Novel Editor by BS CGI Rental
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