讃良の小さな異変 祖母と孫は、初夏の日差しの中、ヘリの消えた北の空を見つめていた。 「未来の世界へ戻ったか」しらず祖母は、涙を溜めていた。 帰りかけて、孫に 「ついでに寺で、エミシとイルカの供養をしてもらおうか」 袖で涙をふく。 ふたりは、近くの飛鳥寺へ向かった。
行く道、ふと斉明帝、懐の名刺を出したが、紙は、風化するように紙粉に変わり、手からこぼれ落ち、昇華するように消えてゆく。
孫娘、覚え立ての歌を上手に、歌っている。だが、千数百年後の発音では、意味不明である。 手をはらいつつ、賢い子じゃなあ、と祖母感心する 「婆ちゃま、不思議な唄い方ねえ。意味は……」 急に立ち止まり、ぼーとした状態をし、すぐ正気になり 「ピトパ タァダピトリ タァピニ……プラタナスノカレパマウ……カゼガ プィテルダケ」 当時の飛鳥時代の発音で、歌いきった。 「讃良や、どうして分かるのじゃ」 祖母は驚いた。はっきりと意味が判ったのである。 「さっき、何となく、判ったの」 「まさか!」祖母は、食べた物が消え失せて、孫に何かが起こったのかと思う。 「体に、何かおかしいことはないか」 「べつに……」 何気ない孫娘の顔を見て、ほっとし、 「プラタナスって何かのう」 「異国の木かなあ、楓みたいな葉の、道に植えられる並木よ」 「なぜ、判るのじゃ!」 「そんな姿が、浮かぶの。ああ、婆ちゃま、『そこには、ただ風が吹いているだけ』てどういうこと?」 「うーん、深い人生の感慨があるのう……。ああ、歳を取ったら分かるようになるさ。讃良(さらら=後の持統天皇)お前の人生はこれからじゃ」 これから波瀾万丈の人生を送る、この十歳の少女に、この歌の実感に気づくのは、晩年の時になる。
中大兄皇子登場 飛鳥川に架かる橋を渡ろうとした時、 道のむこうから、父、中大兄皇子が、数騎の手勢を率いて来る。 馬から下り、かけよる。 二十九歳の皇太子は、面長の顔で、頬はややそげ、眼光がするどい。 「母じゃ、ご無事でござったか。怪しげなる物の怪が、空から降りた所に、母じゃが行かれてたらしいと聞いて、心配しましたぞ。物の怪を仕留めて見せましょう。どこへ隠れましたか」 弓をつがえて、きょろきょろする。 「父(とっ)ちゃま、間違って人に当てたら大変よ。危ないから仕舞って。……雷神さまは帰ってしまったのよ」 内心、(父は、おっちょこちょい、だなあ)と讃良は笑った。 「おお讃良、お前見たのか。雷神だとな。うーん……何の兆しか?」 矢をえびらに納めつつ、考え込む。 「これ! 葛城(中大兄皇子の名)、飛鳥寺で、エミシとイルカの供養をするが、お前も付いてこい」 「エミシとイルカの……? まさか雷神は……」 「そうじゃ、二人の霊らしい。可哀想なことをして。全くお前は、軽率な男じゃ。実の兄を殺してしまうとは」 「母じゃ、いつも云うが、もっと前に、そのことを明かしてくれていたら、良かったのに」 「異父の弟のお前を皇尊(すめらみこと)にしよう、と入鹿が思っているのが、世間に知られては、まずいことになるから、明かさなかったが……。入鹿は古人に肩入れしてると、大海人が、お前に不安を焚きつけていたとはなあ」 古人大兄皇子は入鹿の従兄弟にあたり、世人は、蘇我氏がこの皇子を次帝に推戴するとばかり思っていた。 が、古人の義母の皇極(=斉明)女帝が、中継ぎで即位した事情には、蘇我エミシが、将来、息子の異父弟・中大兄皇子を帝にし、入鹿を宰相にして、国の将来を託そう、と考えたからであった。 エミシと斉明帝の間には、入鹿の母親が斉明帝であることを内密にする約束が、別れる頃からあったのである。
続いて馬から下り、近づく一人の壮年の随臣が、うやうやしく斉明帝に礼をする。 温和そうな顔をして、あごひげを短く整えた、中大兄皇子の謀臣・中臣鎌足である。 「おそれながら、陛下、入鹿が、陛下のお子とは、何かの間違いでは」 「鎌足、お前、入鹿と学友であったろう。葛城と面差しが似ていることに気づかなかったのか」 共に、南淵請安の私塾で学んでいた時、入鹿は鎌足の才を認めて、自分の配下にと勧めたが、鎌足は辞退したのである。 「そうえば、どこか……」鎌足、中大兄皇子の顔を見て、驚いた表情をする。 「日頃、腹黒いことを考えている割には、感が弱いのう」あきれた斉明帝。
「婆ちゃま、早くお寺に行こう」 桟橋の姿の橋の上で、孫娘がせき立てる。
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