有間皇子の悲劇 ここは、白浜温泉の湯の宿から、かなり離れた、人気のない山の麓である。 樫の大樹、二木の間に、小屋ともいうべき、にわか造りの神殿が、設えてある。 数日前から、斉明帝は、高句麗との条約文を持込み、ここで寝泊まりをして、自身に先祖霊が宿る儀式(新嘗祭にもある儀式)を行っている。 条約を、皇祖に懸けて、誓うのである。 これが現代で言う、批准行為となる。 すでに、中大兄皇子と血判署名しあった、高句麗大使が、七人の部下を連れて、帝が、小屋に入るのを立ち会った。 明日の、帝が儀式を終えるときにも、立ち会いに来るのである。 この日、準備を指図していた大海人に、家臣が近づく。 「若、配した手の者の通報によれば、今、有間は、赤兄に引っ張られて、中辺路あたりです。明日の夕刻までには、皇太子の面前に、引きずりだされましょう」 「そうか。で、姉(間人皇女)は」 「仕込んだお薬で、途中で寝込んでおられます。後々、大丈夫ですか」 「下剤だから、大丈夫だ。で、旅の途中、何かあったか」 「たしか、皇女さまは、しきりに有間さまに、道祖神に捧げ物をせよ、とか、神木に結びの願掛けをするよう勧められまして、なにやら唱歌もなされたとか」 「願掛けの和歌か。神頼みしかできぬとは、哀れな。……ああ、賀取文(高句麗大使)が来た」 大海人は、明日の儀式の打ち合わせをしに、出向いた。 蘇我赤兄は、しきりに有間の所へ、出入りして、信頼を得た。 十一月三日、人払いをさせて、謀反を勧めたとき、一笑に付した有間に、 「皇子、あなたの父上は、毒殺されたのですぞ。黒幕は誰だか、おわかりでしょう」 燃えるような目で、赤兄は見つめる。 「毒殺!?」考え込み 「そういえば、大海人の家人(けにん)が、連絡をしにきたとき、父の好物の瓜着けを持って来たが……」 「誰々が、それを食しましたか」 「その者が、先に毒味をしますと言い、食してから、父が食べたが」 「他には、誰が」 「私は好きでないから、遠慮した。父が全部食した」 「その大海人の家人、毒慣れしているのでは」 「毒慣れ! すると、忍びの者か」 「百済の流れの忍びでしょう」 かくして、謀反に乗る気になった有間だが、数日後、豹変した蘇我赤兄に屋敷を包囲され、捕らえられて、白浜への護送されるのである。 今で言う、おとり捜査に引っかかったのである。 それを知った、間人は、心配で、無理矢理、護送の一隊に同行した。 皇女なので、赤兄は、むげにできなかった。 この義母に勧められ、神に祈った際の有間皇子の和歌が、有名な二首 岩代の 浜松が枝を引き結び ま幸くあればまた帰り見む
家(いえ)にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしれば 椎の葉に盛る
であり、間人皇女の歌が、 君が世も 我が世も知るや 岩代の岡の 根草をいざ結びてな
我が背子は仮庵作らす 草(かや)なくは 小松が下の草(かや)を刈らさね (護送の者に、有間の野宿の粗末な寝所の、手直しを命じたのであろうか?) 同行の終わり間近に、下痢と腹痛に襲われた間人は、同行をやむなく中断してしまう。 中大兄皇子に前に引き出された、有間皇子は、謀反を問われて、あごを中大兄に突き出し 「天と! 赤兄が知っている。わたしは何も知らぬ!」 天皇になるはずの中大兄を、天と言ったである 顔色を変えず、中大兄皇子は 「どこぞへ、連れて行け!」と命令した。 後手に縛られた、有間皇子を乗せた馬は、北に向かった。 和歌山市の手前、現在の海南市の籐白坂で、降ろされ、警護の者たちに、乱暴に、首に縄をかけられ、木に吊らされた。皇子の重臣らも処刑された。 十一月十一日のことである。
その悲劇の前日、樫の二大木の間の小屋から、斉明帝の先導をして、大海人皇子が出てくる。待機していた高句麗の大使らは、静まりかえり、見続ける。
額田王は、この情景の歌を万葉集に残している。 (静まりし 大夫(たぶ)ら つま立ち 我が背子が い立たりけむ 厳橿が元)
【この歌は「莫*隣之大相七兄爪湯」の箇所が、古来から難解でしたが、女性国文学教授(失礼ながら、お名を失念)が、大相と兄を、高句麗の官位と突き止め、『静まりし大夫(イを飛ばしてタブ)ら つま立ち』と読み解かれました。(立ち読みした評伝『額田王』に載っていました)】 翌日、湯村の宿舎で、中大兄から報告を聞いた斉明帝は、烈火のごとく怒り、嘆いた。 「なぜ、わしに知らせなかったのじゃ! 独断で、そんなむごいことをして、アア……」 「母じゃの神掛かりの儀式が続く間に、中断をさせるのは、まずいと思いまして」 「それは、誰の入れ知恵じゃ」 「皆が……」中大兄、口をにごす。 斉明帝は、ぴんときた。 「いいか、あれ(有間)は、お前にとっては、大事な身内ぞ。お前の手足となって、欲もなく、懸命に働くはずの、賢い子じゃのに。誰かさんとちがってのう」 ちらっと、大海人を見た。 見つめられて、大海人は、内心震え上がった。 この出来事により、体調を崩した斉明帝は、宿泊を延ばした。 遅れて湯村へ来た、間人を連れて、ある日、真ん中にポッカリと穴がある円月島を見物に行く。 その時、ため息をつきながら、間人が、唱った歌は (吾が欲りし 野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の 玉ぞ拾(ひり)はぬ) 救えなかった、有間の命(いのち)を、真珠に見たてての感慨だったか。
【万葉集の中皇命(なかつひめのみこと)について諸説ありますが、間人皇女と考え、和歌は、この事件の時のだ、としました】
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