道鏡と弟 その頃のある日の夕方、東大寺の道鏡禅師の寝所でのことである。 弟、浄人も同室している。 寝る前の習慣の、顔の按摩、指圧をしている道鏡に、弟が言う。 「よく、飽きもせず続くねえ。それにあの仕掛けだ」 寝具の肩を抑える帯、足側の弓に結ばれた帯を見る。 「もう、よいではないのか、兄者。20年もして、鼻も高くなっているし、背も2、3寸伸びているし、いまさら、もっと変えようとしなくても。それより、小さい、真ん中の足を引っ張ったら、ハハハ」 「おい、おい、いやなことを言うのう」 「皮肉だねえ。人の病を呪術で治せるのに、自分の息子を大きく出来ないなんて」 「これは、小便の用だけでいいんだ。不淫の僧に大きいマラは必要ない」 「でも、世間では、兄者が、でかいマラで、上皇様の欲求不満の病を治した、とうわさしてるよ。皆の前で、可愛いそれを見せれば、噂が消えるがなあ」 「馬鹿を言え。そんなことしたら、わしの権威が落ちる」 「やはり、劣等感を持っているねえ」 「かなわんのう、お前には。そのことは触れてくれるな」 「そういえば、真備が怒ってきた、宿奈麻呂の事件のことだが。心を操る秘法(マインドコントロール)を、上皇に掛けているのを、あの男に知れたとは、考えすぎだよ」 「かもしれんが、用心にこしたことはない。ついでの、家持は、よかった。薩摩に飛ばされて、ほっとする」 「だが、あの男は、昔の兄者と別人だ、と思っているんだろ」 「押し掛けて来た時は、ヒヤッとしたが、破れかぶれで近づいたが、首を傾げた様子で、よかった。でも気がつかないとは限らぬ。それも用心だ。だが、押勝は、何故か、まったく気がつかぬようだが」 「権勢に溺れて、昔の不運を、忘れているのかな。わからんなあ。それにしても、兄者と押勝は、不思議な運命の巡り会わせだ。安積親王の死による不運から抜け出すため、兄者は呪術の修行で、あの男は皇太后への忠勤で、共に聖俗の頂点に登りつめ、これから、生きるか死ぬか、の戦いになるとはねえ」 「そうよのう、が、わしの、野望はもっと大きいぞ。ふふふ」 浄人は、あきれた顔をして兄、道鏡を見る。
藤原宿奈麻呂 改め 藤原良継 5月の末日、朝遅く、宿奈麻呂は、菜園のスモモを採っていた。李下に冠を正さず、の李である。 さわやかな初夏である。 若い頃、異母兄広嗣の叛乱の連座で、伊豆へ流刑された。 生き残るため、農作をしていたから、48歳の今でも、上手なものである。 くたびれて、座り込んで、籠へスモモを入れていた。
誰か、門内に入ってきた。垂領の服を着た大人と少年をちらっと見て、顔を戻す。 気にも留めない。自分が失職状態なので、官位のある弟への客かと思った。 こちらへ近づいてくる。振り向きもせず作業する前へ、大人の影が枝に映る。 「藤原の宿奈麻呂さまは、ご在宅でしょうか」 「そんな者は居らぬ。出て行った」振り返りもせずに言う。 借金取りか、と思ったのである。 すこし考えて、男が言う。 「では、出て行かれた、宿奈麻呂さまの後を、うまく継いだあなたさまを、藤原の良継さまと御名付けします。で、良継さま、あなた様に、ことづけの手紙を、お持ちしたのですが。敵同士からの、2通ですがねえ」 振り返った良継(宿奈麻呂)は、後光のような朝日を背負った、青年を見る。 黄色い垂領の輪郭が、微かな金色を帯びて見えた。神々しい姿で、さわやかな笑顔を認めた。 めまいがして、よろけた。あわてて青年が、手を差し出した。 「大丈夫だ。軽いめまいだ」と言って、青年の顔をはっきりと見る。 ほんに心配そうな表情をしている。頭巾は品のあるかぶり方である。 運命の出会いを良継感じた。
「誰だね、君は」 「白壁王の子、山部と申します」 「ああ、うわさで聞いたが、商人の婿になっている方か」 まずは、スモモの籠を持って、山部と、綾麻呂の末息子を、家の中に案内する。
差し出された2通の手紙を、かわるがわる読む。良継は、考え込む。 同居している弟、にも読ましてもいいか、と訊ねる。 山部は、いいでしょう、と答える。 山部に、両方の手紙の内容を、知っているのか、とも聞く。 内容は読んでないと言い、が、押勝や真備とのいきさつを話した。 『上皇を押し倒して勝つ』の話には良継も、やはり笑った。
山部にも読めと、渡す。 簡単にいえば、押勝は、弟、雄田麻呂を、上皇側に間諜として入り込ませて、情報を送る働きをしたら、以前より高い位につける。 真備は、その裏を掻いて逆間諜になり、押勝を混乱させるのを手伝え、とのことであった。
夫人が、柿葉湯を持ってきた。 スモモを、勧められて食べている少年は誰か、と聞かれ、山部、綾麻呂らのことも話す。 少年から夫人に、押勝からの贈答の反物と、真備からのおすそ分けの大根が、渡される。 夫人に、別棟の弟夫婦を呼べと言う。ついでに子供達を外へ出して世話をしろとも言う。 変な組み合わせの品物を抱えて、夫人は出て行く。
山部のことをいろいろ聞き、気が合ったのか、楽しく談話していると、弟の藤原雄田麻呂と娘の諸姉が入ってきた。 ややこしいが、彼は良継の異母弟で、娘、諸姉の婿でもある。
【当時、異母兄妹や異母の叔父姪、叔母甥の近親婚はタブーでなかった。優生学上の問題が判りだす鎌倉時代に、タブー視されだすのだが】
良継より16歳若い32歳で、務めは宮内少輔である。 入り婿で、同じ敷地の別棟に住んでいる。 窓の外では、幼女2人と男の子達が遊ぶのを、夫人が見ている。 例の「朝日さす豊浦の寺の…」で遊んでいる。 瞬く間に、子供達の間での流行歌になっていたらしい。歌詞が少し変化し、これから何年も流行するのであるが。 弟夫婦が手紙を読んでいる間に、外の子供達の説明を良継がする。 あの娘はわが子で乙牟漏 (おとむろ)4歳、あの娘は孫で旅子5歳、など言う。 名前を明かすことに、山部だけでなく娘夫婦も驚いた。 当時の習慣として、初対面の者に、家族(特に女性)の名前は明かさないことになっていたからである。(1章の家持の娘の例もあるように) 山部さまは、我が家の運命を左右する、大切なお人だから、家族のことを、すべて明かすと良継はいう。といって娘の名、諸姉も教えた。
「兄上、どうされますか」雄田麻呂、手紙を置いて、聞く。 「どちらも、気が進まないな。既に、真備様に知られているから、押勝には付けぬ。だが上皇に付いてる道鏡がなあ。押勝のこの知らせによると、やはり、わしをおとしめたのは、道鏡だったのか」 「道鏡様と何かあったのですか」山部聞く。 「世間では、道鏡と上皇の醜聞が、広がっているが、どうも道鏡は、上皇の体を犯してはおらんよ」 「押勝様も、そう仰いましたねえ」山部言う。 「だが、道鏡は、体でなくて上皇の心を犯している。道鏡の後を、夢遊病の様な表情で、上皇が通るのを、わしは見たのだ」 「では、上皇は、道鏡の意のままに操られていると」 「どんな効果の術なのか、わからぬが、とにかく異様だ」 2年前、良継が上野の守の任を終え、都に帰るとき、下野国の薬師寺から、道鏡への、寺改修費の増額の嘆願書を預かった。 東大寺の道鏡の道場へ行こうと、回廊を進んでいると、前から道鏡が、上皇を案内してこちらへ来る。あわてて、平伏して、上皇が通り過ぎるのを、上目遣いで見たのである。 そのあと、薬師寺からの書状を渡すが、道鏡は改修を取り止めさせ、寺の者に恨まれる。 【後年、道鏡はこの寺に左遷され、ひどい待遇を受けるのだが】
山部は言う。 「吉備様は、うすうす知っているみたいですよ。上皇を政治(まつりごと)に目覚めさせるための術を、かけられたのはやむをえないが、道鏡の勝手を防ぐには、あなた様一族の活躍が必要だとか」 「では、双方に誓約書を書こう」 端の机で墨を摩り、料紙に書く。 これは、吉備様へと、最初の書状を山部に読ます。山部、懐にしまう。 2枚目の押勝への文を終えたが、何か考えている。 「山部君、なにか押勝が、和むような追加文はないかねえ」 「そうですねえ」 ふと山部、外の少女を見る。 「4歳の我が娘を、8年後、山部殿が娶りたいと申されたが、その時はぜひとも月下氷人(仲人)の労を取って貰いたい、はどうですか」 「それは、いい」 と言って書き込む。 で山部にその書状の写しを書いて、山部が認めたことを証明してもらいたい、と頼む。 逆間諜になるから、身の安全のためだ、と言う。(本心は別の事のためだったが) 気安く山部が写し終わると、書状を渡し、写しを、大事にしまい込む。 書状の相手を間違えないように、と山部に念を押す。当たり前である。間違えたら大変なことになる。
少年は退屈そうなので、外の子供たちの方へ遊びに行かした。 しばらく4人は談話する。雄田麻呂は、スモモを皮を剥かずにかじる。小さい頃からの癖だそうだ。 山部との連絡に本名の宿奈麻呂でなく良継を使うが、弟はどんな仮名を使おうか、と言うと、スモモの皮を食べられるから桃皮、では字がまずい、百川でどうでしょう、と山部が言う。
藤原雄田麻呂 改め 藤原百川 「雄田麻呂などという名前は、語呂が悪い、酔っ払いがおだ巻いているようだ。百川が良い。改名しろ」兄が言う。 「何を言うんですか、兄上、この名前は加冠(成人式)のとき、兄上がくれた名でしょう。いい加減だなあ」呆れる弟。 「わしも、運が少なそうな、宿奈麻呂は止めて、良継にする」 「改名で運がよくなるかなあ」疑わしそうに雄田麻呂云う。 「そうだわねえ、あなた『藤原の百川』はいいわよ、謀略家のような名前だわ、雄田麻呂はくだらなく見えるわよ」妻、諸姉言う 「おいおい、わしは、くだらない人間か」 皆笑う 話題が、去年の事件の処罰が軽すぎたことに触れると、山部は、家持から聞いた、万葉集の話をする。 「そうか、わしらは、家持の歌集に救われたのか」と良継は感嘆する。
8つ(午後3時)が過ぎて、山部が、帰り仕度をする。 良継は百川を連れ出し、門の外まで出て見送った。 少年を連れた、山部の後姿を見ながら、良継は言う。 「百川、お前どう思う、あの方を」 「どうって。うーん、好男子ですねえ」 「それだけか…。わしは、運命を感じた。決めたぞ、あの方のために、一生を尽くす。あの方を天皇にする。命を削ってでもする。わしだけでは出来ぬ。お前も手伝え」 「兄上!」驚いて百川、兄を見る。 消えざかる山部の姿を、良継は、まばたきもせずに見つめていた。
【この日から9日後の6月9日、押勝の娘婿、御楯が亡くなり、次第に押勝の立場が悪くなる。上皇側からの間者の情報が、巧妙に細工されていることを知らず、気がついたときには、押勝は劣勢の兵力で、都を脱出する羽目になるのである。この謀略に百川は、多大な才能を示し、吉備真備も一目置いたそうである。】
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