悩む白壁王 白壁王邸は、大安寺の北東にある。 当初はこじんまりとした屋敷だったが、故聖武帝の長女の婿になったので、敷地が拡張されて4千坪にもなっている。 天皇の長女という高貴な人物のための、ゆったりとした屋敷配置に造り直された。 結婚時に、内裏に近い、より広い邸宅(長屋王邸跡らしい)への移転を、白壁王が辞退したらしいので、そうなったらしい。 他の者を待たせて、綾麻呂を連れて、寝殿の父親の書斎にしている几帳内に入った。幸い周囲は誰もいない。 役所の書類を見ていた。 「おう、山部、今日の相撲は残念だったなあ」顔をあげて言う。 「それよりも、父上、大変な事態になりました。これをお読みください」 渡された上皇からの手紙を読む。 やはり、内容に驚く。 しばらく目をつむる。目を開け、ためいきを吐く。 「まさか。こんなところまで、きているとは。とはいえ、わしは上皇に、忠誠を誓うしかない。このお手紙にあるように、これからは、押勝さまと会うのは、極力避けねばならぬ。お前が、代わりを務めろ、気づかれぬようにな。で、その方は」 「この方は、上皇様方配下の、忍びの衆の頭ですよ」 「ほほう、物の本で読んだことがあるが、本物の忍びか」 物珍しそうに、綾麻呂をじろじろ見る。 「いやですよ、大殿、私共の本業は渡り職人で、いろいろ嗅ぎまわって、上の方に知らせるのは、片手間の副業なんですよ、少し前までそれは、暇でしたがねえ」
「そうだ、手紙の余白に、忠誠を誓う誓約書を書かねば」 文面、署名、拇印を押して、手紙を綾麻呂に返す。 しばらく、3人の話が続く。彼らが旧市原王邸を使うことを、王は了承し、ある程度の食料を運ぶことも、約束した。 いろいろな約束ごとも話し終えた後、王は山部に何か言おうとしたが、綾麻呂を見て口をつぐんだ。 それを、見て綾麻呂、 「私めにお気遣いは無用です。内々のお話は、上の方に伝えません。余計なことを伝えると、内輪争いになりますから。ご安心ください」 「そうか、では話そう。問題は、上皇が帝に復位された後だ。上皇は独身の女性だ。後、誰が皇位を継ぐ。一波乱起こるなあ。わしまで候補に目されると、へたをすれば殺される。綾麻呂殿といったかな、わしは元々、端にもかからぬ傍流の皇族で、貧しい暮らしをしていた。こいつ(山部)が生まれた頃はすこし楽になり、平穏な暮らしだった。広嗣の乱でのわずかな功のおかげか、先代の帝(聖武天皇)が、お気に入り、娘の婿になされた。幸運のように見えるが、このような邸宅で暮らすのは、空恐ろしい気分になることもある。長屋王のように、ある日突然、兵が屋敷を取り囲み、毒を飲まされて殺されるかも知れぬ。今上陛下のご即位で、気分は楽になっていたのだが、また、怯えて生きるのかと思うと、気が重い」 「へえ、ご出世なされても、大変なんですねえ。でも、いっそのこと、帝を目指されたら」 「めったな事を言われるな。我が身が危うい。それに、国の行く末を考えていたら、夜も寝られぬ帝の立場は大変だ。宮仕えのほうが、よっぽど気楽だよ」 「ほー」綾麻呂は感心する。 話を変えて王が聞く 「で、綾麻呂殿は超人のように早く走れて、人知れず忍び込むことができるのかね」 息子と同じように尋ねる。 うんざりした顔の綾麻呂に代わって、山部が答える。夜這いの失敗の話まで言った。 「それは軽率な。親のご機嫌を取るという根回しをしてからでないとなあ」 「なにせ、何も知らない若造の頃でしたので」頭をかく。 ふと、思いついのか、王は続ける。 「実はな、綾麻呂殿、わしは簡単に、自分やこいつ(山部)の位を上げる方法を、持っているのだよ」 「はあ?」 「上皇の機嫌のいいときに、姉である正妻が、頼めばいいんだよ。簡単に位が上がる。だがなあ、その後が大変だ。妬みで周囲の者から、それこそ半殺しの目にあう。で、そんな手段はとれぬ。仕事の実績と、周囲への根回しで、皆に納得させて、地位を上げるしかないのだよ。こいつにはかわいそうだがね」 「へえ、大変お気を使って、生きられておられますなあ」 話は切り上げられて、2人は退出する。 ちらっと綾麻呂が囁く。 「わたくしめは、帝に本当にふさわしい方は、あなたのお父様だと思いますよ。『国の行く末を考えていたら、夜も寝られぬ』など、上皇様も他の皇族方も、思いもしませんでしょう」 黙って山部はうなずく。
作業所の手入れ 荷車を引きながら、市原王邸へと急ぐ。日はまだ明るい。 綾麻呂らが遠慮するのに、かまわずに山部は荷車押しを手伝う。 途中で綾麻呂が、どこぞかの衛士と、ぶつかりそうになった。さっと、例の手紙を相手の袖に入れる。 あの、若者が、舌打ちをして言う。 「下手だねえ、うちの親方は。わしらに丸見えじゃないか」 末息子がかばう。 「でも、一番大事な仕事は、誰にも真似できないよ」 「確かだ、あれは凄い、頭がよくないと出来ん」 聞き流ていると、市原王邸についた。白壁王邸から遣わされた衛視に、山部が説明して、全員邸内に入る。 早速、綾麻呂、末息子をつれて、家族、使用人に、会わす。 舅からの依頼で、甲冑修理人を、空いてる作業所に住まわすことを伝える。水銀を使う金の鍍金もあるから、誰も近づかないように、釘を刺す。 山部だけが、行き来することも言う。 「昔ここで働いた時に、能登様をお見かけしましたが、そのときより1段と、妖艶にお美しくなられた。また、お母上さまは、お姉さまかと思えるほど、お若い。弟子共が、懸想したら大変だから、絶対作業所へ近づかないでもらいたい」と綾麻呂は、上手な口ぶり。 母も姉もおだてに乗って、ニコニコしながら、約束をする。
綾麻呂の指図で、作業所や、宿舎にあてがう建物の入居準備がされる。勝手知ったように、寝具のある場所まで、皆に教える。 (ちなみに布団の中身は、綿、羽毛ではなく、蒲の穂である) 周到に、この邸内に入るのを計画していたらしい。 1通り済むと、山部と綾麻呂は、路を隔てた田村第へ出向く。 顔見知りの衛士が案内し、家宰に会う。 甲冑や、兜、太刀飾りの修理の仕事をいただきたい、と頼み込む。 初めは渋った家宰だが、試みに不使用の汚れた甲冑2着を出す。 二人は抱えて持ち帰った。
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