旧市原王邸にて 山部は、都へ戻っている。市原王の49日の法事には、なんとか間に合った。 帰ったとたん、故市原王邸をしばらく管理するようにとの、上皇(孝謙女帝)直々の思し召しがあった。 役所から派遣されている者達は、引き上げ、市原王の書庫からは、大仏建立のための書物多数が、元の処へ持ち帰られた。書き写していれば良かったのに、と山部は残念がったが、市原王の蔵書は、いろいろある。特に好きな、中国の歴史の書籍が、残っていてほっとした。 法事の翌日の朝餉の後のひとときである たまたま役所は休みであり、父、白壁王が昨日から泊まり、ゆったりしている。 「この婿の屋敷を、しばらくの間、山部に管理させよ、と上皇様が云われたが、変だなあ。諸国を回る商人をしている事をお聞きだし、何故、役人でない者を、留めて管理人になさるのだろう。いかに、市原の義弟とはいえ、前例がないが。何かあるのかな」 「姉へのお上のご厚意でしょうか。だが疲れましたよ。交野から戻ったとたんに、ここに引っ越しだから。でも変だなあ。すでに舅の出先を百済王(くだらのこきにし)様の屋敷の中へ替えていたし、思し召しの前の日に、商いは休むようにと、付け人が云っていたし。前もって皆で準備したような」山部、不思議がる。 「そうそう、そこにある家持殿の甲冑は補修の者がくるから、ここに置かせてほしい、とか能登に言付けたそうだ」父が言う。 「補修人は、いつ来るんだろう。まあいいか」山部ごろんと寝ころぶ。 ふいに起き出し 「ああ、父上、変だと云えば、この屋敷の次の主になる筈の、吉備真備様が、病でここに移れないから、しばらくは私が管理するのでしょう。ところが、先生の見舞いに行くと、病を押して出かけていて留守だ、といわれ、帰り路で、真備様に似た寺男の老人が、かくしゃくとして歩いてましたよ。十数年会っていないから、もっと歳を取られたはずなのに、髪と眉毛だけが、墨を付けたように真っ黒だし、きっと変装なさっておられるんでしょが、なにをなさっているのでしょう」 「お前に、気が付いたか」 「いえ、一途に前の方を見て、早足で行かれたので、声を掛ける機会を失いました」 「はて。正妻に見つからずに若い女の所へ通うには、歳を取りすぎておられるだろうし、仮病で職務を怠慢すれば、処罰されるが。何か、上皇様から内密の命を受けてうごいているかも。人には云うな。」 「わかりました」
二人の会話を聞くのに飽きた傍の少年僧、早良 「兄上、僧都様に なにかことづけはありますか」 昨日の49日の法要の伴僧を務めたのである。 導師はすぐに帰り、弟は泊まっている。 久しぶりの家族団欒を、との師匠の厚意である。 「別にないなあ。早良、早く寺に帰らないといけないのか」 「そういうわけでは。師匠は2.3日遅くてもよいと」 「じゃあ、ゆっくりしていけよ。出家してから3年か、お前の読経も様になっていたよ、まあ優秀なほうだなあ」
「早良、子供達の相手になってやって、まとわりついて困るのよ」 2人の子を連れてきた姉が言う。 母と2人で、中食を作っている。今日の皆で行く、相撲見物のおやつである。 「じゃあ外で遊技をしようか、五百井(いおい)五百枝(いおえ)」 早良は5歳の姪と3歳の甥を外へ連れ出す。
「父上、相撲見物の後は」 「これからは、しばらくはこちらへ戻らずに、自分の屋敷の方におらねばならぬ」 「何故ですか」 「上の指図だ、上皇さまからのようだ。はっきりとはわからぬ。」
外で、わらべ歌が聞こえる。早良の声だ。 「『朝日さす豊浦の寺の西なるや、おしてや、おしてや、桜井へ、おしてや、おしてや、白玉沈くや、吉き玉沈くや、おしてや、おしてや、然しては、国ぞ栄えむ、わが家は栄えむ、おしてや、おしてや』そうそう、お手てをあげて、丸く輪を作って、 放して、ゆらゆらさせて、手を下げ、ぐっと押して、また押して、手を叩いて、押して、すくい上げて…」 振り付けまで教えている。 「変な歌詞の歌だなあ、豊浦の寺や桜井の寺は、近くに昔あった寺だが、その西となるとわが家だが」白壁王、不思議がる 「たわいのないわらべ歌 でしょう。早良が作ったかな」
話を変えて、朝食後に伝えた志貴皇子の和歌の話を、続け始める。 「父の和歌が、大伴家に伝わっていたとはなあ」 「門外不出で、義兄にも教えなかったそうですよ。私だけが例外だって云ってましたよ。何故、世間に秘密にするのでしょう」 「そうよなあ…。うん、そういえば、婿が造東大寺司長官任官の祝いに、家持卿から贈られた山上憶良編の『類聚歌林』だが、昔の上司に、書写を懇願されて貸したら、借金取りに取られた、と言い訳して返って来なかったが、あれは、山上憶良直筆だから、すごい宝物だ。その上司、謀ったのではないか。家持殿の直筆の歌集でも、世人が知れば、欲しがる権柄がでるかもしれぬ。代々伝えるには、秘密にするのが上策かもしれぬか」 「しかし、和歌を代々伝えるよう、昔の帝が、何故命じたのでしょう」 「分からんなあ。だが、お陰で父の歌を知った。早蕨の歌は本当に名歌だ。それからムササビの歌だが、あれは意味深長だなあ」 「ああ、確か『むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟師(さつを)に逢ひにけるかも(万3-267)』でしたか。何だか父上の処世訓のようですねえ。父上が飛ぶ時、慎重に周りを見渡して、安全か確認してから飛ぶんでしょう」 「父も、処世に苦労したんだろう。敗残の天智系の皇族は、怯えて生きねばならなかったからなあ」自分の生き様と重ね合わせて白壁王は、しんみりと云う ふと思い出して、父が云う 「ああ、そうだ、舅からの付け人が言ってきたぞ、今日の大安寺での相撲大会だが。試合が終わった後、土俵の側で人と会ってくれだとさ、相手から声を掛けてくるそうだ」 「誰だろう」 「他戸が子供の試合に出るが、秋の奉納試合の練習がてら、お前も大人の試合に出たらどうだ、去年は惜しかった」 「ああそうでした。もう少しで決勝までいけたのに」
「惜しかったといえば、大伴卿の娘ごとの話は、どうしてだめだったんだ」 「あれ、父上もかんでいたんですか」 「実をいうとな、大伴卿は、宮仕えの者を、婿にしたくなっかったのだ。うっかり失言されると、地位を追われたり、流罪になる時勢だから、それが自分の身にまで及ぶ。その点、お前ならば、生活力があるし、地方の豪族にでもなる、と見込んだのだよ」 「地方の豪族ねえ、でも娘さんは、とんでもない者になると言いましたよ。婿取りの断りの理由としては、呆れますよ」 例の天皇になるという、娘の予感の話をする。 いつの間にか母と姉が戻っていた。父も姉も笑った。 「いやだー。お前、精力絶倫かね、20人のお妃だなんて、ほほほ」 が、ふと、母がじっと考え込んでいるをみて姉、 「どうしたの、お母様」 「実は、山部を産んだ時、横にいるのを見ていると、私もこの子が何かしら、高い位に就くような気がしたの」 「へえ、まんざら、夢物語でもないのかなあ、で私の生まれたときは」 「お前の時はなんにも」 「ああ、残念だわ。……ん、でも山部が帝になる前に、お父様が帝になっていないとおかしいわ。このままでは、山部は皇族になれないもの。お母様、お父様に初めて会った時、どう感じたの。帝になると感じたの」 「とんでもない。いやらしい、風采の上がらない男だったわ。それに忍んできたとき、よっぱらってて、息が、酒くさったこと」 「おいおい、少しはわしを誉めろ、まったく。あの頃は、わしもウブで、酒でも飲んでいなければ、夜這いなどできるか」 みんな笑う。 いつの間にか戻った5歳の孫娘が言う。 「夜這いてなあに、じっちゃま 」 「あわわ、みんな笑うな、これこれ、小さい子の前で」困惑顔である。 「うーん、難しい。そうよのう、男の人が、女の人の処へお婿さんになりに行くことだよ、ああ疲れる。五百井(いおい)お前にも良いお婿さんを探してやるよ。おお、可愛い、可愛い」 王、抱き上げて、頬ずりする。 山部、茶化す。 「夜這いされたらどうします?」 「そんな奴は、たたき出してやる!」真に迫っている。 戻っていた弟、早良も笑う。 手を引かれた甥、五百枝(いおえ)は、きょとんとしている。
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