(後日談その2)童歌のその後 まずは、山部の弟、早良の悲劇を話す。父白壁王が、山部に譲位する時、何故か、早良を還俗させて、東宮(皇太子)にさせた。 で、第1章、(万葉の人々)の桓武帝の寵臣暗殺事件では、、早良は流刑に決まり、道中で、抗議の断食をして絶命した、と歴史書には書かれているが、本当は、水分を一滴も 与えず、脱水症にして死なす、という暗殺をされた。桓武が、実子を東宮に据えたいがため、弟が邪魔だった、と云われている。
で、童謡の話に戻る。 桓武帝60歳の頃である。 命じていた歴史書(続日本史)の編集で、光仁(白壁王)の治世初めの第31巻が、桓武帝に提出された。 ざっと読んだ帝 「最初に出てくる童謡は、父の即位の予言の、こじつけのために作ったのか」 「いえいえ、その歌は、本当に、私どもの幼い頃の歌です。御前ですが、踊りましょうか」 同意を求め、編者の菅原真道らは、遊戯を始めた。 いい中年の官吏の男達が、御前で遊戯をする。 「葛城山の前なるや、豊浦の寺の前なるや、桜井へ、おしとど、としとど、白玉沈くや、吉き玉沈くや、おしとど、としとど、然しては、国ぞ栄えむ、わが家は栄えむ、おしとど、としとど」桓武帝、にこにこ眺める。
すると、たまたま伺候していた、坂上田村麻呂が言い出す。 「聞き覚えがある童謡だが、わが幼い頃と少し違う」 同じ年代の者も、そうだそうだといって、交代して遊戯をやりだした。 女官をしている姪、五百井も飛び入りで踊る。
『朝日さす豊浦の寺の西なるや、おしてや、おしてや、桜井へ、おしてや、おしてや、白玉沈くや、吉き玉沈くや、おしてや、おしてや、然しては、国ぞ栄えむ、わが家は栄えむ、おしてや、おしてや』
厳つい姿の田村麻呂の遊戯は、傑作だった。みなゲラゲラ笑う。同じく、初め笑っていた桓武帝だが、不思議そうな顔をしだす。そして昔を思い出す。
皆が水をすくう仕草を見て、顔が真っ青にまり、「今日は、これまで」と言い、急に退出しだした。皆がどちらへと聞くと、厠だと云い足早に去る。 厠の中で「早良、許せ、許せ、許してくれい、ああ」と忍び泣きをしだした。 水を掬った姿で、恨めしそうに兄を見つめる、早良の亡霊が出たのである。 外では繰り返し、童歌が続いている。この童謡は、桓武にとっては、脱水症で殺された弟の、抗議の歌となってしまったのである。
第2章終筆後記 「朝日さす」の歌は日本霊異記からの引用です。 押勝の3男を、次男と間違えたのを訂正するための再投稿になります。
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