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平安遥か〈U) 遠雷の日々 作者:ゲン ヒデ

第1回   1
     平安遥か〈U) 遠雷の日々  

           上皇宮
 奈良京大内裏跡の現在の東隣の法華寺は 元々、藤原不比等の邸宅であった。光明太皇后宮になっていたが、今は出家した孝謙上皇の宮になっている。
 旧暦の3月末であり、現代の桜が散り終わった頃であるが、当時の人は、何故か桜を珍重しなかった。
 それはさておき、本堂前の中庭の池には、終わりの桜の花びらが数片漂い、その前で、紫の僧服の尼僧が佇み、鯉に餌を与えている。
 横で寺男の老人が控えて餌入れの皿を掲げている。
 
 餌やりを終え、横の老人に笑顔を見せる。
「ほほほ、爺、寺男の姿はよく似合うわよ。なんなら、ここで働く?髭まで剃りおとして。でも墨で髪や眉毛を染めているのは、わかるわよ」
「はは、陛下、これでも考えて、変装したつもりですがなあ」
 孝謙上皇と吉備真備である。
 真備は、亡くなった市原王の後釜として、造東大寺長官に就いているが、病と称して出仕していないのだが。

「そなたの云うように、『たしか市原王の妻の弟に山部という者がいたが、真備の病が終
えるまで、その者に市原王の屋敷の管理をさせなされ』とさりげなく命じたわよ」
「ありがとうござります。まずは、押勝の日頃の動きを十分掴むため、白壁王の長男、山部を協力させると、百済王敬福と、坂上刈田麻呂がいっておりまして、母が百済系で、27歳でしょうかなあ。おかげで、隣家の市原王の館邸に、計画通り住みました」
「敬福や刈田麻呂と同族なのね。で裏切ることはないの」
「昔、水銀毒を防ぐ手だてを工夫した、白壁王の長男ですよ」
「ああ、その子か、姉(井上内親王)があの頃、その子からの受け売りの話しだが、『大昔、西の果ての義理国の大学者、歩き目(アルキメデス)とか言う学者が、金の王冠を、金無垢か混ぜ物か、調べる方法が分からなくて、湯船に入って溢れる湯から、比重とか言うものを考えついたそうな。その男は素っ裸で調べて、王冠が混ぜ物と分かったそうな』今も面白い話が届けられるわよ」
「ほう、市原王の書庫からの話でしょうなあ。そんな遥かな国の話の書もござりましたか。確か、ギリシアとか云う国でしょう。そこから歴山王(アレキサンダー大王)が、東へ東へと、天竺(インド)近くまで広大な国々を征服したが、32歳の若さで亡くなり、国が分裂したと、長安の大学で学びましたが。そんな、面白い故事は初めて知りました。…ああ、感心している場合ではございませぬ。話を山部に戻しますぞ。妻子が敬福の親戚で、敬福の手にあり、裏切る筈は、まずないでしょう。」
「博学のようね。侍従にしたいわねえ」
「それは、押勝を反乱に追い込んで、滅ぼしてからのことです。ことは内密を要します」
「だがまあ、押勝に新羅征伐をたきつけ、その準備のはずの武器や兵糧を、うまく隠したおえたこと」
「あの男は、慢心しております。自分に刃向かう者はいないと信じ込ませており、油断もしております。あと半年内に、準備不足で謀反をさせます。そこで追い詰めればよろしいわけで」
 
 ふと、真備、思い出して、
「お上、先ほどの比重とやらですが、水と比べると、たしか黄金は20倍で、しろがね(銀)は10倍ですが、みずがね(水銀)は18倍の重い液体の金属でしてな。それについて、山部が大変な質問をしましてなあ…」

【山部が試作した防毒の覆いが有効だと分かると、唐への出発前の日、白壁王、市原王、山部が連れ立って、真備の教えのおかげと、お礼に訪れた。
でまた、山部が質問した。
『蒸発した水銀毒気は、どうなるのでしょうか、空で冷えて重い水銀の塵となり、地面に降り注ぐかもしれないのではないのでしょうか、そうなると、水銀毒が撒き散らかされたままの状態となり、何かのことで蒸気になり、人々が吸い込むかもしれませぬが。
 もしそうなら、大仏の渡金は中止した方がいいのでは』】

「いやあ、答えに窮しました。我らには未知の事ですから。ですが、考えられる話です。で白壁王が、代わりに答えられましたが、『大仏建立の最後の仕上げの作業だから、止めるわけにはいかぬのだよ、山部。帝(聖武)は御不調なのだ。生きているうちに、お顔だけでも金色に輝く御仏を見たいのが御希望なのだよ。…もしも将来、毒物に汚染されて、病人がでたと分かれば、安全な遠くへ遷都し、この、青に良し、と詠われる都は、後は野となれ、山となれと、うち捨ててゆかねばならぬなあ。風雨に曝され、この地から、毒が流れ去るか、地中深く下るかすれば、戻って来れるが、百年後か、二百年後か、分からぬことだ。だが、それは、その時の帝がお決めになることだ、我ら臣下の手に負えることではない。いいか、山部、人心不安が起こるから、その話、人に話してはならぬ、忘れろ』と諭されましたが」
「ほう、そんな話をしたのか。じゃが、今まで、何も起こらなかったから、杞憂だったのう」
「それが、どうもそんな兆候があるのです」
「それは本当か!」
「2月前、野辺に行く葬列に出くわしたのですが、死者が子供で、亡くなる時の様子を参列者が話し合っているですが、どうも、水銀毒に当たった状態なので」
「由々しきことじゃ。もっとはっきりと調べよ」
「お上、今は、押勝退治が大事ですぞ。その事はその後のことになされませ」
「ああそうじゃなあ。後でのことにしよう。だが、気になるわのう」

    侍女由利
本堂から、女性が近づく、侍女姿の由利である。
 歩き方は優美な様である。
「陛下、臣下達が言上に参って、だいぶ待っておりますが」
「そうか、ぼちぼち行くか」
 控えている真備、別人のような強声で云う
「おお、由利様、あなた様の歩くお姿は、百合の花が揺れる様のような、まっこと、あなた様は、お名前通りお美しい」
 由利、父の方を向かず、小声で話す。
「お止めください父上。わざとらしく誉められても、嬉しくありません、皆に聞こえたら恥ずかしいですわ…。それよりも父上、惠美押勝様の草の間者など本当にいるの。見張ってるけど、そんな素振りをする者はいないわ」
「いや、きっといる。焦らず、気長に調べよ」

      忍び草
 上皇、口をはさむ。
「なんじゃ、草の間者とは」
「ああ、陛下、それは、おそらく鎌足公の頃に、諸家に放たれた間諜の子孫ですよ。藤原の氏の長者に、諸家の動静を伝える役目を代々、伝えていくそうです」
「鎌足なら、百年前。孫や、ひ孫の代の間諜になるではないか。そんな者達がいるのか」
「いると思われます。これまでの事件の讒言者の多くに、先祖にどうも鎌足公の縁者がおりまして」
「うーん、その様な者、探し出すのは容易ではないな」
「ご安心くだされ、我らにも、草の間者の組織が付いています。伊賀者で、頭目は不明ですが、名誉、地位、富とは無縁に、王家のため働きたいというので雇いました」
「ほう、そんな者達がいたのか。頼もしいこと、ほほほ」
「ああ、皆が待っておりますな。由利頼むぞ」
 真備は、本堂に戻ろうとする上皇に頭を下げた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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