腹の底までこたえる京都盆地特有の冬の寒さに閉口して、一度は京都の地を、山部は都の候補から外してしまった。 平安遷都までの経緯 姉、能登内親王の亡くなった数ヶ月後、病がちになった父の譲位で、45歳で山部は即位した。 その前、親子の相談のとき、遷都から外す奈良の寺院を宥めるため、早良を法王禅師に、と父が勧めるが、山部東宮、弟を東宮にしたら、と答える。 それは、出来ぬ、天智帝と天武帝の兄弟の例があるではないか、と父が言う。 大丈夫です、早良は東宮を、我が子に譲るはずです。と自信を持って、山部は答えた。 その自信、何処から来たものであろうか…? 譲位してから8ヶ月後、光仁上皇は、崩御する。 山部の遷都事業に備えるため、治山、治水、農業振興に力を入れた治世だったが、屯田兵による東北経営に、危機感をいだいた蝦夷らの反乱が始まりだした。 桓武帝47歳のとき長岡京建設が始まる。 当初は、副都を建設するとの触れ込みで、難波の宮の建物を移築していった。 しだいに奈良京の建物を移築しだして、奈良京をうち捨てて遷都することに誰もが気づき、反対運動が始まった。特に寺院の反対が強かった。陰湿な妨害活動もあったらしい。 都造営の責任者の暗殺事件で、桓武帝は反対する者等に過酷な弾圧をした。 都にするのに、長岡京では不都合なことがあったらしいのだが、現代では、その理由は、はっきりと分かっていない。 もう一度、京都の地を都にと思い立つのは、(792)であった。 その翌年、遷都が開始され、諸国から人々が集められ、新都造営の槌音が立った。 翌年の延歴十三年(794)十月、内裏は未完成なのに、桓武天皇は、百官を引き連れ、移ってきた。 桓武帝は都の完成を急ぎたかったが、強行な東北征服の失敗があり、新都建設と蝦夷遠征の負担で、国は、疲弊状態になっていた。 新都建設は遅々として進まなかった。
雪化粧の都 延暦二十四年(705)十二月、齢69の桓武帝、智麻呂の診察を受けていた。 家持の話をしてから、病に伏せった2ヶ月後である。 「今日は、御気分がよろしいようで」 「うん、寝てばかりしたので、体が鈍っておるなあ」 「少し,お歩きになられても、よろしゅうございますが」 「ぶらぶらと、内裏を見て回ろうか。ああ、松林を見てみたいなあ」 「ああ、宴の松原ですか」 内裏の西側の広い空間にある、松の森である。 「昨日降った雪で、都は雪景色一色です。雪化粧の内裏の姿も乙なものです」 「では、出かけるか」 「ああ、陛下、厚着して温かくなされてから、お出かけ下され。渤海からの毛皮なぞを羽織られたら」 「そうしようか」 「あ、陛下、南都の調査の井戸は、全て埋めました。弟子から知らせが入りまして」 「その弟子、(坂上)田村麻呂の6男のことでないか」 「さようで。父(綾麻呂)の死を知らせに来られたのが縁で、私の弟子になりましたが」 「婿養子に迎えるのか」 「さあ、なんでも親からもらう所領地にあわせ、丹波という姓を名乗るそうで」 「お前の孫娘の婿になればいいがなあ」(智麻呂が、丹波哲朗氏の先祖になったかは不明である) 「私めは、伊賀の草忍ですので」 「そう卑屈にならなくとも。お前は南都の住人を救った功労者だぞ」 「いえいえ、わたしめは、下調べ役で、陛下が救世主です」 「失敗が多い、救世主であったなあ」 「やむを得ません、それでも続出した難問を、なんとか、さばかれたではありませんか」 智麻呂、外の近従に、 「陛下が、お昼に、お散歩に行かれます。寒さ避けの毛皮を用意してくだされ」
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