難波内親王邸への行幸 8月6日、光仁帝、姉、難波内親王の見舞いのため、行幸をする。 寝所の姉を見、座り込み、子供がべそをかいたように、 「姉上…。ああ…ああ…」帝は泣き出す。 「これこれ、この国で一番偉い者が…。お前、64歳だろう。幼いとき、迷子になって、見つけたときみたいな…」 帝、涙を拭き 「お体はどうですか」 「少し痛みが残っているが、あと2月位で動けるそうじゃ。ああ、智麻呂に礼を言ってね。前に、風邪の治療を、ヤブだからいやじゃと断ったが、キズを治すのは名医だったとはねえ」 姉と弟はしばらくとりとめのない話をしたが、最後に、姉は良継から頼まれた嘘を話す。 「白壁、お前、他戸が自分の子だと思うか」 「え!何ですと」 「姉様が聖武帝の夫人であったから、お前は井上の婿になれたであろう,だがそれには…」 二人の異母のあね、海上女王(うなかみのおおきみ)は聖武帝の夫人となるが、子を産めなかった。 「氷上塩焼が井上に手を付け、困った帝に、姉が、お前を婿に、と勧めたとか。その事は姉の侍女から聞いたが、その侍女、姉とソリが会わなかったから半信半疑だがな…。お前と婚した後、妹の不破の所へ訪れたとき、もう一度、過ちを犯したそうだ。それは、足嶋に打ち明けられたが、嘘つきのあの者の話だから、それも本当かどうか分からぬが…。初夜のとき、どうだったのだ」 「あの時は、『痛い、何をなさるか』と追い出されて…」良継が山部から教えられてた話である。 「処女かどうか確認できなかったか。他戸がお前の子、かどうかも分からぬか」 遠くで雷鳴がする。 「白壁、大雨が来るのではないか。早く帰れば」 急いで、帝一行は戻っていった。 夕刻からの大雨の降る中、寝所で帝は嘘話に悩んでいた。 【この1年と数ヶ月後、難波内親王は亡くなるのだが、井上廃后が呪いを掛けたからだとして、井上、他戸の親子は 宇智郡の空き宅に幽閉されてしまうのである。】
山部東宮 その年の末、太政官の建物の中で、次期東宮の推挙の閣議が行われる。 衆目の一致するところ、山部親王のはずが、1人、大蔵卿、藤原浜成が、百済系なのを指摘して、異議を唱えた。 良継、浜成をじろっとにらみ、 「百済王家の血筋をも併せ持つ、山部親王様をけなされるか!」 良継のもの凄い形相に、浜成、平謝りする。
翌年宝亀4年(773)1月2日36歳の山部、立太子して東宮(皇太子)となる。 他戸や井上皇后のことがあるので、気が進まなかった。 が、帝や周囲の説得で、しぶしぶ同意したのである。
真備の遺言 それから2年後の宝亀6年5月4日、山部東宮は、お忍びで吉備真備の屋敷を訪れた。 馬ではなく徒歩である。随身はあの家司の子、菅野真道ただ1人である。 真備の子(といっても壮年である)泉が出迎え、真備の寝所へ案内する。 寝ている真備、東宮だけと話がしたいので、皆、遠慮してくれと頼む。 泉と真道は、場を離れる。
「智麻呂よ、来てくれ」と真備が呼ぶと、戸外から、智麻呂が入ってきて、真備の足元に座る。 「明日は、午の日、端午の節会ですな。お忙しいところ、お呼びして申し訳ない。急に体がおかしくなり、頭がはっきりしているうちに、ぜひともお話ししたいことがありまして」 「先生、もっと長生きしてください。先生まで、失いたくはありませぬ」 「殿下、なにやらお顔がすぐれませんな」真備、心配そうに言う。 「7日前、井上皇后と他戸が、押し込められた宇智郡の没官の宅で亡くなりました。一緒に亡くなるとは考えられませぬ。ひょっとしたら…。それを聞いて、妹が狂いました」 「酒人内親王様まで!」ため息をつき真備 「あなた様が帝になるための犠牲者が、増えましたか」
「どうも、良継と百川が、謀ったのではないでしょうか」 「殿下、以前お教えしましたでしょう。偉大な帝王は、清濁併せ呑む器量がなければならぬと。あなた様に、今一番欠けている資質です」 「先生、まさか、あなたまで…」 「殿下、あなた様は帝になる宿命を背負っておられた。だから良継と百川は運命に導かれるように、あなた様のため、暗躍したのでしょう。私は、帝王学と治世方をお教えしましたが」 「どうして、私を帝に」 「そうだ、先に、酒人内親王様の病のことを片づけましょう。智麻呂、櫃のあの書を殿下に差し上げてくれ」 5巻の巻物が山部東宮の前に置かれた。題名は書かれていない。 ただ第何巻と、巻番だけ書かれている。 「それは、留学仲間の我が友、僧医、玄ボウが書き残した、心の病を治す医書です。内容が難解でしてなあ。玄ボウ自身が作った、暗号のような語彙が多く、私にも難解でしたが、たしか、玄ボウの左遷先の筑紫の観音寺へ、神職の者が日参して教えを受けたらしいのですが、その者、宗像大社に寄寓していたとか。問い合わせてごらんなさい。その者に教えて貰えば、理解出来るかも知れません」 第一巻を手に取り、開いて、東宮驚く。 他戸のため、探していた医書である。 読み進めると、全く理解できぬ語彙だらけになる。東宮ため息をつく。
「その件は終えるとして。次は皇后と他戸様のことでお悩みですが、そのお悩みが消し飛ぶほどの悩みになる話をします」 寝床の横の、1枚の地図を渡す。都の地図である。 「あちこちの赤い印はなんですか」 「よろしいか。殿下よく聞いてくだされ。それは水銀毒に汚染された水脈を探すための、深い井戸の場所です。大きい丸は濃い汚染、小さいのは薄い汚染。だんだんと都の北から南へと、東から西へと、移動しています。あと30年、いや25年後には、都の領域内に入り込んできます。深い水脈にある水銀がなにやら変化(へんげ)して別の毒に変わているのです。この都の住人20万人の生活に、多くの井戸水が汲み上げられていますが、それに吊られて上に舞い上がるように、普通の深さの井戸に漏れてきます。もし、それを飲めば…。智麻呂、ネズミを持って来てくれ」 外へ出た、智麻呂、鉄の籠を持ってくる。 中のネズミ、踊るような異常な行動をとっている。 「殿下、これは、狂い死にしている前の姿です」 「では、都の者全員が、そうなるのか」 「そうなれば、日の本を統治している仕組みが崩壊するでしょう」 「何と言うことだ」 「遷都しかありませんでしょう」 「どこへ」 「それは、陛下、いや、お子の殿下、あなた様がお決めになることです」 「なんという皮肉なことだ。私の不安に父が答えた事を、我ら自身がするはめになるとは」 「ああ、確か『毒物に汚染されて、病人が出たなら、遷都して、この都をうち捨てねばならぬがそれを決めるのはその時の帝だ、我らではない』でしたな」 「それが、我らであったか」 「あのお言葉、天がいわせたとしか、考えられせんなあ。遷都するときは、理由を、井上皇后と他戸東宮の怨霊が、この都に巣くっているとか、寺院の力でまつりごとが滞る、とでも言いなされ。絶対に水銀毒の話、明かしてはなりませぬ。漏れると、皆が我先に都を逃げ出して、国の混乱をまねきます」 うなだれる東宮に 「殿下、後々の水銀毒の汚染の監視を、智麻呂に続けさせてください。他にもあなたが悩む話を、この者が知らますが…(姉の病気のことである)。ああもうお帰りにならねば。今生の別れですな。今までのお付き合いありがとうございました。未来の帝さま。あなた様の先生になれて、我が余生、最良の時を過ごさせてもらいました」
ぼんやりと東宮、帰ろうと立つと、 「ああ殿下、遷都には強い協力者たちが必要です。有力者たちから娘を妃に迎え、皇子や皇女を大勢、儲けなされ、妃は20人いや、25人くらいがいいかなあ…。ああ一度にしてはいけませんぞ。倒れてしまう、ゆっくりとですぞ。ははは」 うんうんと東宮うなずき、出ようとすると、また声を掛ける。 「殿下、四面楚歌となられても、諦めては成りませんぞ。案外、敵の楚人はすくないかもしれません。…これが最後の教えになりますな」 真備、上を向いて目をつぶる。涙を流がす。 東宮、もらい泣きしそうになるが、耐えて、真備の屋敷をでる。 5ヶ月後、波瀾万丈の生涯を、真備は終えることになる。
|
|