すなおな帝と未来の帝 図書頭、山部王は、よく、吉備真備邸を訪れた。 案内なしで、自由に出入りできた。 真備を尊敬して、その見識に触れるのが好きだったのである。真備も博学な山部を愛した。 ふたりは、色々な話題をにこやかに論じ在った。歴史、政治、経済、文学、当時の科学技術など、森羅万象に渉った。
秋の頃、山部王、真備邸を訪れる。 母屋の茵(しとね)に座った真備、脇息に寄りかかって、うなだれている。 泣き疲れた感じである。 「真備様、どうかなされましたか」 「ああ、淡路の帝のことを、思っていた。半月前、亡くなられただろう。逃亡が見つかり、殺されたが、謀られたかもしれぬ。おとなしく、時機を待ってくだされ、と頼んだがなあ。君と違い、すなおな帝であった」 「真備様、私は!…」 「ああ、悪い、悪い、意味が違うのだ。四面楚歌でわしをぎゃふんとさせた君のような、相手を困惑させる器量を、あの方は持っておられなかった。すなおだけではなあ。押勝の言いなりだった…」 気分を変え、 「で、今日来られたのは、何かね」 「陛下の、『次の行幸をしたいが、どこがいいか』との御下問に、『交野を通り、道鏡様の古里、河内を訪れる小旅行はどうでしょうか』と答えますと、貴方様にそれを検討させよ、との思し召しでして」 「ああいいだろう、御前次第司長官(慰安旅行の幹事役)はお父上が最適だな。陛下の行幸が楽しいものになろう。父上に心つもりをしてもらえ」 「はい、承知しました」
真備、小声で話し出す。 「陛下が行幸されたがるのには、理由があるのだよ。夢に出てくるそうだ」 「え!押勝様ですか」 「いいや、淡路の帝(淳仁)だよ」
淳仁帝が亡くなってから、しばらくして称徳帝は夜、うなされだした。廃帝が恨めしそうにじっと見つめるのである。 で、内裏(中宮院)に住むのを厭がり、西に新しい内裏(西院)を造るのを命じた。 完成するまでの諸方への行幸は、それも原因である。
「道鏡禅師の祈祷で、怨霊は消え失せるのではないですか」 「いや、効かぬらしい。怨霊なぞあり得ぬと、わしは思う。淡路の帝の暮らしていた場所だから、心の奥底の良心が、ふうっと浮いてくるのだろう。良心の呵責が起こらない人間は、獣以下だよ」 「真備様は、私より、理(ことわり)大事(合理主義)ですね」
「それにしても、わしにも、怨霊ではないが、不思議な体験があるがね」 と言って、唐からの帰国時の、遣唐使船での、時化の海での出来事を、真備、話しだす。
鑑真和上も同乗している船が、嵐に弄あそばれてる時である。 船内で経を唱える僧達と離れ、船上の帆柱を倒す作業を指揮していると、大波が襲い、真備は波にさらわれそうになる。 海に落ち、何とか船べりに捕まったが、手の力が無くなりそうになる。 もはや、これまでと思ったとき、どこからか、声が聞こえる 「真備よ、生きるのじゃ。未来の帝のために生きるのじゃ。頑張るのじゃ」 すると、手に力が戻り、船べりをやっとの思いで、上がった。 そして、船は、屋久島の海岸に打ち上げられたのである。
「あの厳かな声は、誰だったのだろう。年寄りの女人みたいだったが」 遠くを見るように、真備漏らす。 山部王、ふと、夢に出た婆さんを連想するが、忘れる。 「未来の帝って、今の陛下(称徳女帝)のことですか」 「いや、どうも違う。淡路の帝のことか、と考えていたのだが」 「どなたのことでしょうかね 」
自分がその未来の帝とは、山部王は気づかないし、目の前にいる人物が、当人だと、真備も考えもしなかった。
「ところでな、その未来というか、次期の帝のことだが、先日、和気王が誅殺されただろう。あの男、怪しげな巫女の口車に乗って、東宮になれると皆に吹聴して、帝の逆鱗にふれたのだが…。巫女を煽ったのは、弓削浄人らしい」 「では、道鏡禅師が、有力な天皇候補を除いているのですか。まさか皇族でないのに、自分が天皇になろうと」 「かもしれん。こちらも手を打たねばならんが。良継と百川に任せてはいるが…」 「ですが、次ぎの帝候補となると」 「それは口に出してはいかんよ。噂をされた皇族は、危うい立場になる。君の父上は傍系過ぎて大丈夫だが、万一の事もある。口には、気を付けろよ」 「わかりました」 話を切り上げ、山部王は帰った。
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