伊賀忍者の頭 話を、光仁帝の即位の翌年、宝亀2年(771)秋、に戻す。 山部親王邸の家司、山守が、倉へ運ばれる領地の租の立ち会いをしていると、息子が来る。 「父上、服部伊賀の介(在地役人)様がお越しです。我らの住まいに案内しましたが」 「ああ、分かった。直ぐ行く、と伝えなさい」帳面を調べながら言う。 家司はあの付け人が続けていた。 息子は真道という。 息子は、山部が才を惜しんで、商いの責任者にせず、舅に頼み、自分の家臣にし、大学に通わせていた。 昔、商いの合間に、山部は、真道に学問の手ほどきをしたが、少年の聡明さを認めたのである。 後に姓を変えて、菅野真道となり、続日本紀の編者の1人の学者となるのだが…。
家司の長屋で、伊賀の忍の頭と、山部の舅の手代が、真道の接待を受ける。 大安寺の老僧は数年前亡くなっている。後任の手代が、伊賀忍者の新しい差配である。 家司にとって、この頭とは母方の遠戚で、何くれとなく、商いの手助けをして貰えた恩人であった。 家司も子も、この人物を伊賀地方の豪族と知っていたが、伊賀忍者の首領などとは、気づきもしなかった。 仕事を終え、戻った家司 「これはこれは、介様、お久しぶりで…。で何の御用向きで」 「伊賀の守様の使いで都へ来たが、ついでに、そなた様の暮らしぶりを見たくなってな」 「いやあ、山部親王様のご出世に連れて、仕事が増え、忙しゅうて…」 「羨ましいことですなあ…」 昔がたりをしていると、ぶらっと山部親王が入ってきた。 慌てて、来客2人は平伏する。 堅苦しくせず、気楽にと親王。 新しい手代とは、顔見知りである。 この見知らぬ地方役人について、家司が、遠戚で、友人であるとの説明をする。 で、親王、伊賀地方の話題を聞く。 8つ(2時)に吉備真備のところへ出かけるので、真道に同行せよと命じて、座を立とうとした親王、ふと思ったか 「伊賀の介殿、30年前、荷を運んで、大安寺に行かれたことはありませぬか」 「20歳の頃ですな、はて?都へ来たかなあ…」忍者の頭目、とぼける。 「荷の運び人が、乱暴に扱うので、高僧様にひどく叱られていましたが、帰り際、高僧が頭を下げ、偉そうに運び人が出てきましてなあ。変なことだ、と子供心に思いまして。その運び人、鶯貼りの床を、音を立てず帰られまして。よくあの寺で遊んだが、盗人よけの鶯貼りの床を、音も立てず歩くのには驚きました。…あなたにその男の面影がありまして、頬のホクロまで同じで」 「親王様、それは人違いです。私めは、若い頃、伊賀から出ておりませぬ。盗人なぞもしておりませぬ」 「ああ、そう言う意味では。失礼なことを言いました。気になさらずに」と云い、立ち去る。 (そうか、帰るとき、つい気を許して歩いたが、あの時の驚いた表情の子童(こわっぱ)が山部親王であったか)不思議な奇遇に感心の頭目。
帰り際、差配が頭に 「親王様は勘の鋭いお方ですな」 「いやあ、驚いた。冷や汗をかいた」 小路を南へ下る途中、人影がない時を見はらい、 「これから、藤原百川さまに、御注文のこれを渡しに行きますが」 背負った布包みから取り出した冊子本を渡す。道教霊符大全と題字が書かれている。 興味を持った頭、借りて、読む。 多くの頁は、上に絵やら呪文が、下に『急々如律令』など書かれている。 願望を成就させるための、まじないの全集である。
「おおこれか、なにやら、恐ろしげな、まじない本よのう。これは効くか」 「さあ…、唐からの最新の伝来ものですが、室の諸姉さまに、桔梗がそれとなく吹き込みましたが、百川さまに伝わりまして」 桔梗とは、忍者の頭が百川邸に送り込んだ草忍である。侍女をしている。 山部の家司の世話で、入り込でいた。
「この本、百川は我らの思惑通りに、謀略に使いますか」 「白紙の冊子も忘れず添えろ。それが肝心だ。嘘を混ぜて、百川せっせと書き写すだろう。もう一つの手は、皇后付きにした小夜を使うはずだ」 「どちらも、残酷な手ですなあ」 「小夜に、百川へ働きかけさせたが、決めるだろう」 「生野の地を頂くのを条件に、と言わせましたが、何故あんな山奥の地を」 「行者の手下が銀の鉱脈を見付けた。しばらくこっそりと掘り出して、30年後くらいに、お上に、発見したと、恩賞をもらうのだ」 「成るほど、最初は簡単に掘れるが、だんだんと手間が掛かるころに売るのですな」
「吉備真備の所へ親王が通っているが、学問を学んでいるだけなのか」 「他意はないでしょう。側で聞いている真道によれば、どうも帝王学でしょうな」 「別に、野心はないか。75だからなあ」 「ですが、妙なことに凝っています」 「妙なこと?」 「あちこちに深い井戸を掘り、その上を小さい社で覆って、時々水を汲みだし持って帰るのです。井戸掘りは我らの者が担当して、大枚の俸を頂きましたが」 「はて?何のためだろう」 「智麻呂が言うには、神水祐気術というまじないですな。吉方向、吉の刻で採れた深いところの地下水を飲んだり、敷地に撒いたりすると幸運があるとか」 「真備は当代一の碩学だったが、歳を取るとおかしくなるか」 忍びの頭はあきれた。
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