真備の引退 真備は引退すると言ったが、光仁帝即位や事務引継やら残務整理で、全職務を辞め終わったのは翌年3月である。 全てを終えて、退出の時、良継と百川が、ねぎらいの挨拶に来る。 光仁帝の即位に合わせ、二人とも山部が名付けたこの仮名へ、正式に名を変えた。
「おお、良継殿と百川殿、後々よろしく頼みます。特に山部親王のこと頼みます」 老骨をむち打つ風情で、頭を下げる。 2人はその様になさらなくても、と慌てる。 ふと真備、質問する 「あなた方が先帝を毒殺したと、疑って悪うござったが、おなごの先帝が長生きなされたら、どうなさるお積りでしたか」 「私はひたすら陛下に忠勤を尽くすだけ。何も邪心はありませぬ」百川キッパリと言う。 「ほほう、忠勤ですか。たしか、出来る限りの栄耀栄華な生活を、陛下にお世話なされたが、贅沢な食事と運動不足は、短命をもたらすとか」 百川、顔色を変える。 「ああ、悪い悪い。私の失言、気になさるな。だが、その手を、今の帝には使ってくださるな。山部君がちらっと思ったことを、話してくれたのだが…。他戸東宮を廃し、山部親王を東宮にしてからでも、今の帝は長生きしてもらいたい。白壁の帝が長生きされても、国政の困難な事で、たぶん山部親王に譲位されるだろう」 「どんな困難な事で」と百川 「何が、とは言えぬが…。時代の矛盾が山積みだから、難しい舵取りになるだろう」 この予言を残して、吉備真備は朝廷を去っていった。 白壁家の家族達 王の即位以来、白壁王家の家族には、高貴な立場の待遇が待っていた。 称徳帝崩御の月の末、山部親王は大学の頭から侍従になり、父に間近に仕え、即位の準備の職務をする。ちなみに、大学の頭の後釜は真備の子、吉備泉が就いた。 父の即位の後、4品という皇族の位に叙せられる。 翌年の春、中務卿になる。現代で言えば、父、光仁帝の総務秘書官長の役か。 光仁帝即位の後、義母、井上内親王は、直ぐに立后し、皇后となる。 皇后となったからといって、特別の感慨はない。 聖武帝の長女と生まれて以来、人々にかしづかれた生活だけをしているのである。 浮世離れした感覚に変わりはない。 が、残念がる事が、起こる。 義姉、難波内親王の髪結いを、受けられなくなったのである。 難波内親王は、やれやれ、あの気にくわない弟の嫁に、かしづかなくてすむと、大喜びで拝領した邸宅に移った。 帝は、髪結いが上手な侍女を探し、皇后に付けたが、皇后は何となく気に入らない。 もう一度、義姉を、と帝に頼むが、姉の立場が変わってしまったから、我慢せよ、と言い含められ、諦める。 自分は天皇の実の姉、皇后と対等か上位である、と、小姑は自信を持ち、帝に、お前の嫁の髪結いなぞもう嫌じゃ、と言い放っていたのである。 姉に頭の上がらぬ帝は、承諾するしかなかった。 姉、能登内親王は、自分の邸で、五百井、五百枝が育っていくのを見守っていた。 後の話だが、だんだんと病がちになり、伏せることが多くなる。 心配した光仁帝は、多くの名医と呼ばれる者を遣わすが、誰も首を傾げ、当たり無難な薬を与えた。 で病状はだんだんと悪化する。 山部が東宮になってから数年後、たまたま、智麻呂が故市原王の蔵書を閲覧しに来たとき、診察する。 当時、彼は経験不足なヤブ医だと噂されていたので、家司は治せなくても元々だと、頼んだのである。 診察が終わって、智麻呂、ため息をつく。 そして惠美押勝の乱前に、鹿か猪の肉を食べなかったと、能登内親王に尋ねる。 体の冷えに良いからと、秋の終わりに、弟が若草山や左保山辺りで猪を狩り、猪肉を持ってきてくれたと、内親王答える。 山部東宮や他の方も食べられたかと聞くと、弟は遠慮気味に少しだけ、娘、五百井も少し、息子、五百枝は嫌って食べなかった、と答える。 智麻呂、不安そうな表情をした。 そして 「治るのは難しいが、気休めかも知れない薬を差し上げましょう」と、ネズミで試して、少しは 効果のあった水銀毒の解毒の草木薬を勧めた。また五百井にも念のため、同じ薬を飲んで貰う。 で、内親王は少しは回復したが、完治には至らなく、長年の患いとなっていくのである。
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