白壁王立太子 それから半刻後、紫宸殿の南面の庭で、殿上人らが整列する。 宣命使が、左大臣藤原永手に偽造の遺勅を渡した。 それを、永手が読み上げるのだが、ちょっとした手違いがあった。 「白壁王こちらに」と永手が言うと、傍まで寄り、遺勅を貰おうとする仕草を、王はする。 先帝の姉婿の自分が、代読役だと思ったのである。 「王、貴方様はそこにお立ちくだされ」永手は前を指す。 不審そうに王、移る。 「あ、頭をお下げください」白壁王、訳が判らず 下を向く。 永手、読み始める 「今詔りたまはく、事卒然に有るに依りて、諸臣等議りて、白壁王は諸王の中に年歯も長なり。また、先の帝(天智天皇)の功も在る故に、太子と定めて、奏せるままに宣り給ふと勅りたまはくと宣る」 白壁王、(あれ?)と思い、顔を起こし 「いま、なんと言われた、意味が判りませぬが」 「お静かに、もう一度、読み返します」と永手は繰り返し読む。 王、顔色を変える。うろたえ 「私めが、次の帝に!何も聞いておりませんぞ!何かの間違いでは!」 横では、吉備真備、思い切り、呆れ果てた顔を作った。 「まあまあ、とにかく御座所へ、皆様ご案内を」と百川 皆が依ってたかり、いやがる白壁王を紫宸殿御座所へ連れて行って、座らせたのである。
親子の対面 その頃、山部王は、大学寮で待機していた。 親子二人も、皇嗣の発表に参加しなくてもいいから、待機するように、との指示があったのである。 「大学頭様、どなたが次の帝に成られるのでしょうねえ」 部下の質問に 「文室浄三様ではないかなあ」 「あなた様のお父上も、噂に上っていますが」 「まさか…、傍系だよ、私の家は」一笑に付す。
そこへ、百川がやって来る。 「おお、山部王、居られたか。東宮様のお呼びです。一緒に来てくだされ」 「ああ、次の帝は決まりましたか。で、どなたですか」 「ああ、あなたのよくご存じの方ですよ。会ったらすぐ分かります」 嬉しそうな顔で、手をこすりながら、百川、山部を促す。 行く道々で尋ねるが、にこにこ顔の百川、勿体ぶって話さない。 紫宸殿近くになると、会う人物らは皆、山部に頭を下げ、丁寧に挨拶する。 自分より高位の者らまで、へりくだるので山部、不思議に思う。 紫宸殿に入ると、真備、永手、良継らの重臣が控えている。 皆に勧められ、御座の御簾へ近寄ると、父が浮かぬ顔をして、座っている。 東宮が着る黄丹(おうに)の朝服が間に合わなく、父は、朝からの朝服のままである。 思わず、山部 「父上、東宮様が座を外した隙に、そんな悪戯をして。露見したら大変なことになりますよ。全く、悪戯好きにも程がある!皆様まで、一緒になって!早く、どいて!」 父、ため息をつき、 「違うのだ、山部、悪戯ならいいが…。押しつけられたのだ」 「何をですか」 「皇位を…」頭を抱えた父。 「ええ!」山部、後の声が出ない。 親子の会話を聞いていた重臣らは笑いだす。 にこやかに真備、例の腹踊りの件を山部に話す。 笑い出した山部 「父上、人からの妬みから身を守るはずの腹踊りが、皇位まで引き寄せたのですね。ははは」 「笑うな、全く、こんな事になるとは…」 「で、先帝の遺言通り、腹踊りを東宮就任の式の時、披露するのですか」 横から真備 「とんでもない!そんなことをすれば、即位どころではなくなります」 「やはりなあ。でも父の腹踊り、私は見たことがないから、見たかったなあ」 「ご家族内でこっそりとなされませ。これからは人に見せることは出来ませんぞ、東宮様」 真面目な真備 「出来ぬのか」残念がる白壁王 「私にだけ、披露してください」山部 「家族には嫌じゃ。軽蔑される」 皆笑う。 ふと思い出し、父言う 「それからなあ、わしの即位の後、東宮(皇太子)は他戸だそうだ。お前の方がいいと思うが、血筋でそう決まったそうだ。堪えてくれ」 「他戸が東宮に。それは良かった」 本心から山部は喜んだ。精神不安の持病を持つ他戸の、これからの宮仕えに、白壁家の者は不安を感じていたのである。世話を受ける東宮ならば、何とかなるのである。
書類を持った役人が来て、控えて言う 「まず、東宮様のご家族の新しい称号につきましては、お子様は、他戸東宮、山部親王、早良法親王、稗田親王、能登内親王、酒人内親王、ご兄弟で、難波内親王…」と読み出す。 何気なく聞いていた山部、不意に 「わたしが親王!親王になれるのですか」山部、感無量の面持ちで泣き出す。 役人、読むのを止め、諭すように山部に 「先ほど東宮様が言われたように、東宮は他戸様なので、あなた様は親王ですが」 「違うのです。嬉しいのです。望んでも成れなかった1世王を超え、親王になれるのが嬉しいのです」涙でくしゃくしゃに成った顔を、袖で拭く。 良継と百川、意外そうに山部を見る。これから帝まで押し上げようとするのに、山部の感動に不思議がる。 父が声を掛ける 「良かったな、山部、親王になれて。思えば、幼い頃、お前は、なぜ私は皇族になれないのか、父上と同じ王でありたい、と悔しそうに泣いていたなあ。これだけでも、皇嗣になった甲斐があったか」やさしく父は子を見つめる。 臣下等、二人を温かく見つめる。
【稗田親王とは、白壁王と姪、尾張女王との間の子です。王の弟の里で暮らしていた、としておきます。まだ数人いるが、省略します。登場人物が多すぎると書きにくいので、省きました】
白壁王、思い出して、左大臣に 「流刑に遭った、惠美押勝の6男、刷雄を許して、取り立てて貰えぬかな。それからあの乱の賊側の者等はお咎めなしに。それから不破内親王の親子、他の者達も許してもらえぬかな」 左大臣、永手 「刷雄達はすぐ出来ますが、不破内親王様は、訴え出た者を取り調べてから、冤罪であると判明してから、ご帰還できます。しばらくの猶予を」 「頼みます」白壁王、頭を下げる。 色々な打ち合わせ中に、真備 「東宮様、私はこれを機会に引退します」 「それは困る。貴公の見識と経験はこれからも必要です。是非ともこのままで留まって貰わねば…」 「殿下、私の齢は75です。これ以上、任には耐えられませぬ。元気な内に、し残したことに励みたいので」 「何をなさるので」 「人々への軽い手助け、奉仕ですな。雑多なことをしますか」 と言い、都の4隅に設けた役神の社と、都内の数カ所での吉備神社の分社を設けたいのでと、用地の拝領を申し出る。 4坪づつなので、東宮快諾して 「何故、あちこちに設けられるのかな」 「いやあ、世話のため動き回ると、からだにいいでしょう」 「さようですか」 実は社の中に深い井戸を隠し、水質の検査をしょう、と真備は考えていた。 かくして、その日は済んでいった。
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