皇嗣談合 8月4日、称徳帝は崩御する。 付き添っていたのは、女官、由利1人だけである。 皇嗣の遺言がなかった、と娘が真備に報告する。 病の治療に専念させるため、娘を家に帰して、真備、紫宸殿に向かう。
紫宸殿の一隅で、右大臣吉備真備、左大臣藤原永手、内大臣藤原良継、左大弁藤原百川が、次期帝候補を話し合う。外の南面の庭では、殿上人らが待機している。 『日本紀略』を引用すると 【右大臣真備論じて曰う、「御史大夫(=大納言)従二位文室浄三真人、是れ長親王の子也。立てて皇太子と為す」と。(藤原)百川、左大臣(=藤原永手)・内大臣(=藤原良継)と論じて云ふ、「浄三真人、子十三人有り。後世を如何とす」と。真備みなこれを聴かず。浄三真人を冊して皇太子と為す。浄三にわかに辞す。よりて更に其の弟、参議従二位文室大市真人を冊して皇太子と為す。亦これ辞す所となる。】
有力な帝候補が、手回し良く来て、皇位を辞退するのである。真備は首を傾げる。 すると、横に百川が寄り、耳打ちをする。 「実は、白壁王様が帝にふさわしい、と我ら藤原の者達は考えております」 「白壁王!」真備、絶句し、 「たしか天智帝の6男の志貴皇子の6男ではないか。傍流中の傍流ではないか!」 「ですが、大行陛下(称徳上皇)の次期帝への思し召しもあります。貴方様もお聞きのはずで」 「そんなことは、聞いておらん!」 「御娘御、由利様も御一緒でしたなあ。あの方は笑い転げましたなあ。他に聞いた者達の名も、控えておりますが」 百川、紙片を胸元から出そうとする。 「笑い転げた、はて?…まさか!腹踊りの話か、でもあれは御座興のお言葉だ」 「御座興であろうと、何だろうと、唯一の思し召しです」百川、言い切る。 より小声で 「実は、我ら藤原一族は偽りの王家から本当の王家、天智帝系に替えたく思います」 と言って、天武帝出生の秘密を話す。 あ然とする真備。 百川、続けて 「お疑いなら、あの鎌足公の遺文で確かめますか」 永手が、いつの間にか前に置いた、古びた書状を、百川、指す。 じろっと見て、真備 「いや、無用だ。わしも知っている。」 「えー?」百川、不審そうな顔をする。
「その話、宮子様の治療中に、玄ボウ(→日方←)が聞き出した。あいつから真偽を尋ねられたが、病からの妄想だと決め付けたが、まさかそれが宮子様の病の原因だったとはな。…同席していた広嗣や押勝が、我ら二人を目の敵にした理由が、それだったかもしれぬか」
【精神病の治療中に、宮子が玄ボウに漏らしたのである。自分の産んだ子、首(おびと、聖武帝)が正当な、男子系の皇位継承者でないのに皇位を継ぐことに悩み、精神に異常をきたしていた。この女性も、鎌足の遺文を見せられていた。……唐文化に憧れていた仲麻呂と広嗣が連れ立って唐の話を聞くため、真備の家を訪れると、玄ボウもいた。雑談中にその秘密を玄ボウが話し、本当だろうか、と皆に聞く。自家の祖父の日記の記事に詳しかった真備は、即座に否定して、病による妄想だと決めつけた。当然、仲麻呂と広嗣も笑って否定する。が二人とも内心穏やかではない。その数年後、広嗣は反乱する直前、君側の姦として、玄ボウと真備を名指しで非難した。「天武帝出生の秘密」を、真備らが気づき、それを楯に王家に食い込んだかもしれない、と疑心暗鬼だったのであろうか。藤原仲麻呂(惠美押勝)も思ったか。…日本書紀編集用に諸家の記録類が集められた際、自家の先祖の日記に、大海人皇子の偽りの誕生年月日が書き加えられたことを、真備は見抜けなかったのである】
真備、頭の中が混乱する。ふと前を見れば、永手が心配そうにこちらを見ているが、良継は目を瞑って腕組みをしている。
ふと、山部王が関わる、様々な昔の光景が、走馬燈のように浮かぶ。 何か閃き、真備 「すまぬが、良継殿とだけ話し合いたい。しばらくの間、他の方は遠慮して貰いたい」 横の百川「私もですか」 「好きにしろ、だが、話の邪魔はするな」
皆が退くと、真備、良継の前に行き、座り込み、話し出す。横に百川座る。 「みずくさいのう、良継。我が刎頸の友にしては。まさか…」 1息継ぎ 「まさか、山部君を帝にしようと、途方もないことを考えていたとは!」 良継、目を見はるが、一言も言わない。横から百川、 「東宮は他戸王!山部王では!」
じろっと百川を見、また良継に向かい、 「その、他戸王じゃが…、そなた達は荒っぽい手を使って、東宮を山部君に替えるつもりだろう。が、山部君に感づかれると、… 異母の弟とて、彼は家族思いだ。知れば止めようとする。となると露見だ。山部君の身の上まで危うくなる。大丈夫か」 真剣に言い寄る真備。 「うまく、やります」つい良継漏らし、シマッタの表情。
真備、微笑み、 「で、いつ、山部君を帝にしようと思ったのだ」 「初めてお顔を見た時、あなた様と押勝の密書を持って来られた時でした」 「やはりな。わしも初めて大学寮でお顔を見たとき、不思議な気分になったが、わしは露先払い、そなたはその後に続く先導役であったか。千年に一度起こる難事に、千年に一人現れる英明な帝が、必要ということか」 「何の事でしょうか」横の百川尋ねる。 「ああ、何でもない、下らぬ独り言だ」
真備、改まって、良継に 「白壁王の即位は認めよう。但し条件を幾つか付ける。まず、永手が持っている汚い遺言状を焼き捨てよ。また天武帝が偽帝などという異説を、藤原一族は後世に伝えぬ事。次ぎに、公には白壁王の即位の理由をはっきりさせぬ事。腹踊りではまずい。偽勅をお前達が仕組んだことにせよ。それから最後に、わしが引退した後、山部君に、我が経験や知識を教えることを、認めろ。帝王学とおこがましいことではないが、あの方の将来に、役に立ちたい。この最後の条件は、絶対に譲れぬ!」 真備の勢いに苦笑して、良継言う 「わかりました。全て呑みましょう。では皆様方を呼びましょうか」 かくして2人の談合は終わった。
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