綾麻呂らとの別れ 8月初め、初秋に、旧市原王邸を立ち退く命令が出された。先に綾麻呂ら甲冑師が引き上げる。 その前の晩、彼らを呼んで、山部は本殿で、別れの宴を開いた。母、姉、子ら、使用人達も一緒である。初めて一堂に会したのである。 皆、しんみりとした風情で料理や酒を食す。弟子の中に泣き上戸の者がいて、釣られて綾麻呂まで泣き出したころ、お開きになった。
綾麻呂らは、長屋へ戻って、一服した。長男の智麻呂も一緒である。山部の世話で、この男は、典薬の医師の婿に迎えられたのである。 「やはり、どことなく、山部様は寂しげですね。妻子を亡くされたからなあ」と智麻呂が言うと、父はうなずく。 「それより、薬師の婿の仕事はどうだ、御医師様になれば、我らの身分から抜け出せる大出世だぞ」 「ああ、舅様は、私の持ってきた医書や、草木本を見て驚かれましたよ。最新の書を写させてくだされた山部様には感謝、感謝ですよ。それより親父様、暗殺の仕事はもう出来ませんよ。山部様に連れられて薬師如来の前で、医師としての誓いの書を書かされて、燃やした紙を食わされたけど、不味かった」 「わかっておる。もうお前には、そんな仕事はさせぬ。これからは、腕を磨いて、一人でも多くの人を救うように心がけろ。われらの代わりに、罪亡ぼしをしてくれ。山部様に顔向けできぬことは、一切頼まぬから安心しろ。それにしても嬉しいことだ、お前が、典薬の頭まで出世できる夢をもてるからなあ」
弟子の1人が、刀を持ってきた。 「親方、これを見てください」 「なんだ、その刀、反り返っているぞ、失敗したのか」 「いや、これは、今までの刀より強靱なのですよ。ちょっとした工夫で反り返らしただけですが、折れにくくなっていますよ。山部様がお教えくださったのですよ」 「ふーん」刀を受け取って、綾麻呂じっと見る。 「これは使えるぞ。甲冑の仕事が暇になったら、これで行くか」
【当時、奈良時代の刀は、刀身が真っ直ぐな直刀である。平安時代から反り返った日本刀が出現するのである。また、甲冑は、不思議にもこの奈良時代末期から平安時代初めまで、鉄片を使わず革だけで作られるようになっていた。まるでドラクエゲームの安いアイテムの武具である。筆者も首を傾げるのだが】
この弟子が言う。 「親方、山部様をわしらの仲間に入ってもらったらどうですか。あの方の知識は役に立ちますよ」 「だめだな」 「何故ですか」 「あの方は、出世して、我らがお顔を拝めぬくらい偉い方になる。わしらの差配様の上のお頭様が、こっそりと後押しするそうだ」 「へえ、じゃあ大納言様の位ですか」 「いや、もっと上だ」 「右大臣」 「いや」 「じゃ、人臣位を極めた太政大臣、これで決まりだ」 「ばか、帝だ」 「いー、帝!」驚く弟子。皆も目をむく。 しばらくして、弟子はぽつりと言う 「山部様とお付き合いできた思い出は、一生大事にしていきますか」 やはり山部が持っている不思議な雰囲気を理解したのである。皆も納得した。 翌日彼らは、東北の地だろうか、次の役目の地へと去っていった。
押勝の怒り 良継が1年ぶりに田村第を訪れたのは、旧暦8月の末の昼過ぎであった。前もって指定された脇門では、押勝の次男、真先が待っていた。 寝殿の西北対の建物に案内される。内密の面談に使われた建物であろう。 帯刀は前もって預けたので、良継は丸腰である。それでも万一を警戒したのか、畳敷きに座った押勝の左右の護衛に、息子等が待機していた。
良継は泣かぬばかりの仕草で、去年の、酔った勢いでの言動での謀反じみた騒動の詫びを言う。 押勝、呆れた顔をし、もう気にしておらぬと言って、上皇側の動きの情報を、促す。 「太師(太政大臣)様がご要望なされた、都督四畿内、えーと、どこ、どこでしたかなあ、それらの、兵事使…」 「都督四畿内・三関・近江・丹波・播磨等国の兵事使だよ」 「ほう、なるほど、率性聡敏だと噂のままのお方ですなあ、太師様は。で、上皇様は、その職への任命について、不安を持たれ、真備に試問されましたが、真備は、『諸国から千人以上の兵をかき集めるのなら、問題だが、二百人くらいなら、謀反にはなりますまい。だが、都で多くの者を味方にして、急に、この上皇宮を取り囲まれるのが、一番怖い。二千人だと、手の打ちようがありませぬ』と言上したら、上皇様は、『大丈夫じゃ。逃げ道がある』と自信気に言われたそうで。まあ、結局、その役職は、諸国割り当ての兵数次第で、認めるかどうか判断するそうですなあ」 「ううん…、その逃げ道とは何だ」 「ああ、それは法華寺から外へ通じる抜け穴のことでしょう」 「抜け穴なぞ、あったのか」 「あれ、太師様は、お父上から聞いておられませんか。不比等様の屋敷だった頃、子供だった父らが遊んでいて、建物のどこかで地下に通じる入り口を見付けると、不比等様に、口外するな、ときつくしかられたそうですが。政敵に襲われたときの用心のため設けたのでしょうか、ひょっとしたら、不比等様が元明女帝の許に通う秘密の穴かも。女帝の愛人だったとの噂が本当だとすれば、東院のどこかに出口があるかもしれませんなあ」 「ふーん、抜け穴か」 (まずい、取り巻くのを拡げるとして、四千の兵は必要か)押勝、この嘘話に易々乗って、即座に兵数を考える。 良継は、他にも色々な情報を述べ、押勝が質問し、良継がそつなく答える。 全て終わると、 「今日はごくろうであった。ああ、この前、そなたから唐風の酒が届けられていたが、何か意味があるのか」押勝訊く。 「はは、お気に召されたら幸いですが、深い意味はございませぬ。酒はもうこりごりですので、弟が手に入れたのを、あなた様に献上すれば、身の回りになく、酒断ちが続けられますので。それにあの、たかりの氷上塩焼がどこからか聞き付けたか、唐酒を飲ませろ、と押し掛けて来まして。自分が将来、即位したら、取り立ててやるぞ、など上皇様や帝がお聞きになれば、処罰ものの言葉を吐きまして。あの軽率者に係り合って連座になるのは、敵いませぬので、あなた様への献上を選びました訳で」 「あの、御仁のしそうなことだ、その酒欲しさにわが家へも来るかな、はは」
改まって良継は、昨年の、鎌足の和歌を聞き、押勝が家持に平伏した出来事の理由を尋ねる。 「いやあ、不思議なことだ。家持が歌いおわると、掲げた紙から稲光がしてなあ、大織冠を被った鎌足公らしい人物が現れ、わしを にらみつけられた」 「鎌足公が、…。しかし何故、にらみつけられたのでしょう」 「分からぬ」 「ひょっとしたら、今の王家を支えておられることをお怒りなのでは」 「今の王家?」 「自分の出生の秘密を知っただけで、刎頸の友なのに鎌足公を、天武帝は毒殺なされたではありませんか」 「お前の家にも伝わっていたのか!」驚く押勝、釣られて息子等も驚く。 しばらく考え、 「やはり、あの秘密は藤原の一族には皆伝わっておったか。だがな、我らは鎌足公の子孫ではないぞ。不比等様は天智帝からの拝領妻の子だ」 そう、藤原不比等の実の親は、天智天皇であった。 「ですが、育ての親でも、親でありましょう。天智帝の血を継ぐ者が、偽帝の子孫を盛り立てるのを、お怒りになったのでは」 「うーん、でも仕方なかろう。歴史の流れじゃ。それに乗らぬと我ら藤原一族は滅びる。その話はもうよせ」いやな顔をする押勝。
気を静め、話題を変えて押勝は、良継がひっかかった謀反でっちあげを何故、道鏡が仕組んだのか尋ねる。 すなおに、東大寺の回廊での上皇の歩く時の様を、良継は話す。 「うーん、夢遊病者のようになあ。心を虜にしているのか、それなら今までのことの辻褄があうが」続けて聞く、 「その時、他に気づいたことはないか、何でもよい」 「はあ、別に、…ただ気が付いたと言えば、道鏡禅師の足のくるぶしの下に痣、いや火傷の跡らしいものを見たぐらいで。平伏していたので見付けましたが」 「火傷の跡!どちらの足じゃ」 「えーと、我が前を、右から左でしたから、左足のここでしたが」と言って自分のくるぶしの下を示す。押勝、異様な顔色になる。 「どうかなされましたか」不審顔で良継尋ねる。 「いや、知り合いの誰かが、同じ火傷をしたかなあ、と思い出しておるのじゃ、気のせいかな」 「さようで」と言い、すぐに良継は退出する。
子等を下がらせて、一人になった押勝は唸る。 「まさか、あやつが20年前の偽医僧だったとは、何ということだ。道鏡め、いかなる方法で背丈や顔を変えたか分からぬが、そういえば、なんとなく面影がある。わしをたばかりおって」 忘れていた、聖武帝に殴られた痛みまで思い出す。
【20年前、安積親王の許へ連れて行くため、無理矢理に若い医僧を馬に乗せる際、くるぶしの下の火傷に、押勝は気づく。医僧は、火渡りの儀式の時、跳んだ火の粉の火傷で、と訳を話したのである。】 怒り狂う押勝。この時から、運命を決める押勝の判断が、狂いだすのである。
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