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平安遥か(V)飛翔の時 作者:ゲン ヒデ

第2回   2
永主との再会
衛視に軽く頭を下げて、押勝邸の西門を出た山部は、見知った少年を見つけた。
浮かぬ顔をして考え込んでいる。黄色の朝服姿の永主、あの家持の子である。
近寄り、話しかける。
「おい、永主君、どうしたの」
「あ、山部様、お久しぶりです。わが家の歌集の写しの献上のことで、押勝様にご相談しようと参ったのですが、中に入るのに気後れして…」
(姉が持ち去ったから、献上ができなくなった)とは、山部にうち明けない。
「御父上の薩摩での任が終えられ、帰京してからの献上がいいのではないのかな。漢字だらけだから、和歌を読み解くのは骨が折れるから、押勝様も困るでしょう。今はお忙しいご様子だし」
「ああ、そうですね。父が戻ってからにします。(急に明るくなる)わたしも一字一句間違えずに書くことに骨が折れましたよ、まったく。簡単に書けませんかねえ」
「ああそうだ。この前、吉備真備様から教わった片仮名を教えてあげよう。あれは、覚えれば、役に立つよ。わたしは、まだ隣の市原王の屋敷に住んでいるのが、寄っておいで、おやつの時間だし。…ああ、宿奈麻呂様が来られているよ。あの方の使いで、さっきお隣に、復官のための詫び状を持っていったのだよ」
「宿奈麻呂様が来られているのですか」永主、喜び、2人は屋敷に行く。

その途中、永主話す
「あ、山部様、姉が嫁に行きましたよ」
「あれ、妻問い婚はなかったの」
「婿の母親が病気で、看病もするためだと、姉は言い張って、出ていきましたよ」
「ほう、姉上様は偉いねえ」
「でも、変なのですよ。その母親が、3日後に挨拶に来られたのですが、元気なのですよ。何故、姉はうそまで言って、逃げるように出ていったのでしょうかねえ」
「訳が判らないねえ。変わったお方だ。わたしが20人の妃を持つ帝になるから、婿にはいやだ、と、とんでもない理由を云われたのは 驚いたよ。ははは」
「どうもすみません。でも姉の霊感はよく当たるのですよ。わたしも考えたのですが、もの凄い疫病が流行って、白壁王様と山部様以外の皇族が、全員お亡くなりになったら、あなた様は帝になるでしょう。藤原の4兄弟の例があるから、あり得ないことはないでしょう」
「そんな疫病が流行ったら、私も死んでしまっているよ」
「いいえ、あなた様は、殺されても死なないような、しぶとーい、お方ですよ」
「はは、ありがとう、しぶとーい、と誉めてくれて」山部苦笑い。

「そういえば、変なことが、ありましたよ。姉が家を出るとき、牛車の荷物の上に、老婆が座っていて、私に、にっこりとし、頭を下げたのですが、横の母に『あれは誰?』と聞いて振り返ったら、消えているのですよ、母には見えなかったのですよ。会ったような気がするのですが、誰だか、良く判らないのですよ、誰だろ?」
「ああ、きっと、君は白日夢を見たのだよ。それにしても、君の家は不思議な事が起こるねえ」
「そういえば、歌集の近くでは、いつも何やら気配があったのですが、この頃はなにも感じなくなりましたよ。あれは何だったかなあ」

【荷物の中の、永主が写した万葉集20巻と共に、斉明天皇は、姉に付いて行ってしまったのである】

「姉の婿は、○○の○○という下級の役人ですけど、出世には縁遠い感じの人ですよ」
山部、あれ、と思う。音が消されたように、姓名のみ聞こえないのだ。訊こうとすると、喉が詰まりそうになり、うっう、と呻く。

【神前起請文が、利き始めたのである。この時から、山部(桓武帝)は家持の娘と会おうとか、在所を調べようとすると、体に異変をきたし、しまいには諦める事になるのである】

「どうかしましたか」
「いや、急に喉がおかしくなってね。夏風邪の引き初めかなあ、しぶとくないなあ」
山部、喉をさする。

寝殿の中では、山部の戻るのを待っていた良継が、子供達の相手をしていた。
馬になって五百枝(いおえ)を乗せ、ひひーん、ひひーん、と言えば、五百枝喜び、五百井(いおい)きゃきゃと囃す。
「ああ、宿奈麻呂様だ。懐かしいなあ。幼い頃、私も、乗せてもらいましたよ。帰ってきた姉が見つけて、私を連れだし『お前、失礼ですよ、うちのおとど(内大臣)様を馬にするなんて』と真面目な顔で怒るのですよ。あの予感は外れましたねえ」
永主、にこにこと、良継の馬を見る。

二人に気づいた良継、あやして五百枝を降ろし、近づく。
「ああ戻られたか。あれ、確か、永主君じゃないかな、長らく会っていなかったなあ。この間は、わしの失態で、皆様にご迷惑をかけましたなあ。すまなかった」頭を下げる。
「お気になさらないでください、あれは皆に降りかかった災難だ、と父もいっておりますから」

母、新笠、と姉、能登が、おやつをもってきた。井戸で冷やした瓜である。
みんなで食べだす。山部は仮名文字表の紙を、食べている永主に見せて説明する。
「『阿』の字の片から『ア』、『女』から『メ』、『川』から『ツ』、『千』から『チ』、……、で続けると,

『アメツチホシソラヤマカハミネタニクモキリムロコケヒトイヌウヘスヱユワサルオフセヨエノエヲナレヰテ』(天地星空山川峰谷雲霧室苔人犬上末硫黄猿生ふせよ榎の枝を馴れて)
となるよ。でだ、応用として」余白に字を書く。

『難波津ニ咲クヤコノ花冬コモリ今ハ春ヘト咲クヤコノ花』
『安積山蔭サエ見ユル山ノ井ノ浅キ心ヲ我カ思ハナクニ』

「こう使ってみるとどうだね。分かりやすくなるだろう。吉備真備先生が苦心して考え出したのだよ」
「わあ、すごい、この天地もすごいですねえ、一字も重なっていない」瓜を食べるのを止めて、字に見入る。
横から見ている良継も唸る。
永主は渡された紙に字を写す。

【この『天地の詞』の「榎」と「枝」が当時違う発音の『エ』であり、それで『いろは歌』より古いと考証されている、本来、異字のエが在ったかもしれないか】

 その間、山部と良継は皆から離れて、押勝様邸での事を話す。
 姉、能登が気を利かせて婚礼祝いの反物を永主にことづけた。
       
                   お社にて
 やがて、永主と良継は連れだって帰る。これから、良継は藤原一族の北家の、永手に会いに行くと言い、途中まで道連れとなる。
 婚姻祝いの品を良継も持っていく話をしていたが、良継が大伴家の歌集(万葉集とはまだ名付けていない)の事に触れると、永主は驚く。
「まさか、山部様が漏らしたのでは。あれは世間に絶対知られては困る歌集なのに。ああ、おしゃべりだなあ、山部様は」困り果てる永主。
「どんな、秘密があるのだね。たかが和歌集なのに」
「仕方がないですね、防人歌を集める苦労をおかけした、あなた様には話しますか。その前に、其処にあるお社の神に、『口外しない』と誓いを立ててください。それから山部様にも、口外しないように、頼んでくださいよ。噂が広がると大変なことになりかねませんから」
 通る路の側の小さな社を指す。
「大層だなあ、まあいいよ」
ふたりは小さい社に入る。誰もいない中、蝉がかましく鳴いている。
良継、鈴を鳴らし、柏手を打ち、口外しないと誓いを立てる。

 階段の日陰に座る。
 どこまで山部が話したかと聞くと、押勝の和歌が歌集に大事に載せられているから、謀反心を家持らが持っていなかったと、押勝が認めた、だけ山部から聞いた、と良継は話す。
「それでは話しますけど、その後、押勝様が、歌集を眺めていて、橘奈良麻呂の和歌を見付けて怒り、側の筆を執り、奈良麻呂の部分を塗り潰そうとされてねえ。慌てて父が、飛んで行き、巻物を取り上げ、『何と恐ろしいことを、これは普通の歌集ではありませんぞ。人々の言霊が封じ込められた呪いの歌集でもありますぞ。一首でも消すと、祟りで一家眷属が滅ぶと伝えられておりますぞ』と叫んだら、押勝様は『呪いの歌集とは大げさな。歌集に魂が籠もっていると云うのか。では、大織冠公(藤原鎌足)の和歌もあるのか』と仰せになりましてねえ」
 あまりのお喋りに、良継あきれる。話しは続く。
「巻物を広げて押勝様に見せ、おほん、うんうん、『内大臣藤原卿、釆女安見児(やすみこ)を娶(え)たる時に作る歌一首』『吾はもや安見児(やすみこ)得たり 皆人の得かてにとふ安見児 得たり』」
 父ゆずりの朗々とした唱声が、狭い境内に響く。
「どうですか」じっと良継の様子を見る。良継は、考え込み、深刻な顔をしている。
「あれれ、私に平伏しないのですか」
「何故、和歌を聞いた位で、君に平伏しなければならんのかね」
「やはり、歌集を見せながら、詠わないとだめかなあ…。あのね、押勝様は雷に撃たれたように驚き、父に平伏したのですよ」
「ほう、あいつ、どうしたのだろう。今度会ったら聞いてみるか。それよりも、その采女、孝徳帝と天智帝のどちらに仕えたのだね」
「たしか、孝徳帝の方ですよ」
「やはりなあ」ため息を吐く。

「単に、美女を手に入れた喜びの歌でしょう。この和歌になにかあるのですか」
「云って良いものかどうか、うーん…。よし、うち明けよう。実はなあ、采女は身ごもっていたのだよ。父親は孝徳帝だ。だから、生まれた子は、有馬の皇子の異母弟となる定恵だよ。皇位問題に絡まないように、鎌足様は僧にされ、唐にも留学させたが、帰国後、天智帝から、故孝徳帝の遺児である息子を殺せ、と命じられてなあ。実子ではないが、愛情を持って育てた我が子を殺す事に、鎌足様は大層苦悩され、断腸の思いで、なされたそうだ。だから、その歌は、悲痛な行く末とは表裏一体の喜びの歌だ。皮肉な和歌だよ」
 ためいきをつく。話題を変えて、
「で、その歌集を、何故世間から隠すのかね」
で、斉明帝の命により始められたことを、永主話す。全て話され終わると、良継不思議そうに、
「なるほど、大変な御命令だねえ。だが、昔の歌なら、今の時代に世間に広めてもいいのではないか。問題はないだろう」
「いいえ、まだ和歌の収集は続いているのですよ。万首まで続けるから、私の子の代で終わるかなあ」永主ため息を吐き、続ける。
「それに、真の意味が知れると、えらいことになる歌もあるのですよ」
「えらいこと?」
「王家の秘密が、世に明らかになるのですよ。『春過ぎて夏来たるらし 白妙の衣干したり天の香具山』この歌、誰が歌ったと思いますか」
「うーん」腕組みする良継。「さわやかな季節の変わり時を詠った秀歌だが」
「持統天皇が、文武帝に譲位する直前に、昔からの身内の豪族を、密かに香具山の上に集めて、王家の秘密を守り、忠誠を尽くすことを誓約させた時の歌ですよ。皆に着替えさせるための、真っ白の神事の服が用意されているのを見て、こっそり口ずさまれたのを、曾祖父が聞きとめたのです」
「ふーん、その儀式、本当にあったのか。だとすれば、歌を書き残したと判れば、処刑されるのに、安麻呂様は大胆な」
「しかし、父からこの歌の本当の意味を聞いて、驚きました。まさか、天智帝の弟のはずの天武帝が、異父兄で、父親が百済系で皇族でないとは。本来なら、男系で継ぐはずの皇位が、斉明女帝の女系で即位されたとは」
「おいおい、その秘密は他言しない、と先祖の安麻呂様が、神かけて誓っただろう。」
「ですが、その儀式を取り仕切ったのは、藤原不比等様、あなた様の祖父でしょう」
「そりゃそうだが」しぶしぶ認める良継
「以前の天智帝までの王家の流れを春と見なし、新しい天武帝からは夏だと思われたのでしょう」
「うーん」考え込む良継。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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