家持家の人々と桓武帝の後日談(後) 平安京では、同じ日、内裏の清涼殿の寝所で、桓武帝は薬師の診察を受けていた。 智麻呂である。あの甲冑師、綾麻呂の子である。 桓武帝69才ならば、60才になっていた。 帝からの信頼が厚いと噂される智麻呂は、一級の名医となっていた。 帝の命を受け、何やら都を空けていたことが多かった。 近従らは人払いされ、2人だけである。 脈を採り終え、智麻呂言う 「陛下,舌を見ますので、お口をお開け下さい」 アアと、桓武帝、口を開ける。智麻呂、覗き込む。 うーんと訝しげに唸り、 「背中を叩きますので、後ろをお向き下され」 後ろを向いた帝の背中のあちこちを軽く叩いて、智麻呂音を聞く。 「悪いのか」帝、尋ねる。 「やはり、変化した水銀毒による体調不良でしょう。腎が弱っています」 「いつまで保つのだ」 「2年保てば良いかも」 「分かった。で南都の様子はどうだった」 「今、水銀毒に汚された地下水は、佐保川を越え昔の市原王邸の跡まで侵入しておりました」 「真備先生の予想通りか。で興福寺の場所は」 「ほとんど無くなった様でした」 「内裏の跡は」 「薄くなっていますが、未だ安心できませんなあ」 「水銀毒が流れ去り、安心出来るのは、やはり百年後かもしれんということか」 「ミミズが土を食べ、それを鹿やイノシシが食べ、陛下も含め、初めの患者はそれを食べて体内に残ったのは確かですが、あのまま、皆が井戸から汲み上げると、舞い上がる様に、地の底から井戸へ濃い水銀毒が染みこんで、都の住民全員が狂い死にしておりましたなあ。あの地を捨て去るのが、よく出来たことで」
【大仏の渡金作業が何年かに分けて行われた時、水銀の蒸気が都内(みやこうち)へ向かわないように、南風や西風の吹く日を選んで作業が行われた。が、山々の麓、特に若草山に霧粒のように降り注いだ水銀は地中に吸い込み、じわじわと地中菌により有機水銀類の毒素に変化し、地下水を汚染しだした。この異変に気づいた真備は、智麻呂と共に困難な調査を行って、東宮だった山部に報告し、遷都を進言したのである】
「シマッタ、話をしていて、脈診の見立てを忘れました。もう一度、御脈を拝見します」 帝、前を向き、手を差し出して、ぼうとしている。 「おい、智よ、手のひらを挟んで何をするのだ」 「えっ、まだお手には触れておりませんが」 差し出した手を見、帝、首を傾げて言う。 「はて、何か柔らかい物に挟まれた感じだったが、ああ、それから女人の声も聞こえたぞ。『山部さま、山部さま』とわしを呼んでいたが」 「空耳でしょう。女官たちはおりませんし、御名を呼ぶ失礼はしませんなあ」 「聞いたことがある声だが、はて?」考え込むが、思い出せない。
手のひらを見て 「ああ、家持の娘の声だ」 「ははん、浮き名を流して捨てましたなあ、この女たらし」 と、智麻呂手を叩くまねをする。 「いや、わしは手も触れておらん」 「左様で…。ですが陛下、家持一家には、酷な事をなされましたなあ。あれは冤罪そのものでしたな」 「冷静に考えればそうだが、あの頃は、南都を捨て去ることで、頭が一杯だった。東宮を早良から安殿(あで)に替えたい気もあった。この大業を邪魔されて堪るかと、冷静さに欠けていたし…。この前、調書を見たが、わしが話した水銀毒蔓延の話を、早良はどうも家持に伝えたようだ。永主の言によると『陛下のお言葉は真実だ、なんとしても東宮さまを説得して、陛下に協力させねば』と独り言を言い、井戸水を急に炭などで濾過して利用しだしたそうだ」 「家持卿は誰にも口外なされなかったのですなあ。ようございました」 「遷都で取り残す大寺院を宥める目論見で、父が早良を還俗させて東宮に据えさせたのに、当人が『尊いルシャナ仏はそんなことはなさらぬ。み仏を愚弄するとは、兄上は仏罰を受けますぞ。兄上の妄想を皆に知らせますぞ』と話にもならなかった。だから、酷なことをしてしまった。」 「左様でしたか」
「だがな、早良と家持は、余人をまみえず密談したことが、しばしばあった。何を話し合ったのか、未だに判らんのだ」 「密談?いつ頃のことで」 「氷上川継の事件の4ヶ月後、東宮大夫に戻した頃から10日間じゃ。その後、征東将軍として東北へ行ったが」 「はて…、ああ、あの事では」 「なんだ、それは」 「それは密談ではなく、和歌集の侍講でしょう」 「和歌集の侍講!」
「確か私めが、東宮さまの侍医になり、伺候したときでした。東宮太夫復任の挨拶に参られた時、早良様が、大伴家に伝わる和歌集の侍講をせがまれまして」 「それから」 「家持卿は困惑した風情になり、私ども侍っている者全員に、座を外すよう頼まれました」 「では、お前は後のことを、何も知らぬのではないか」 「前身は、伊賀の忍び草ですぞ。まあ父のようなへたではありませぬし。踏む足音を小さくして、離れる様に思わせ、うまく几帳裏に入り込みまして、盗み聞きをやりました」 「よくやるのう」
「何でもその歌集には、人の口に伝わると困る和歌が数々あるそうで。特に、故、井上皇后様の、死に望んでの自身の不運を嘆いた和歌が、知れると大伴家は取りつぶしに遭うから、侍講出来ぬと家持卿は断られまして」 「後世に伝えることで、鎮魂する気だったのか」帝、ため息をつく。 「ですが、早良さまは、『兄には教えたではないか。お前から聞いて兄は父に志貴皇子の和歌を伝えたぞ』と責めまして」 帝、昔、市原王邸で父に志貴皇子の和歌を教えている時、退屈そうに側にいた小僧の早良を思い出す。 (しまった、父には、良継からの忠告により、口外せぬように頼んだが、早良が聞いていたことを忘れていた。早良にも頼んでおくべきだった)
「で、家持卿は、ざっと21巻まで秘密でならば侍講しますが、と申されて、翌日から、余人を退かし、侍講が始まりました。10日くらいの間ですから、あまり多くの和歌は教えられなかったでしょうな」 「そういうことであったか」
「ああ、そうそう、念のため、翌日の侍講も盗み聞きを始めましたが、最初の和歌、えーと、何でしたかなあ、コモ、フクシモ、コノ岡、イエヲモ…。よく覚えてないですなあ」 「こうではないか、『籠もよ み籠持ち ふくしもよ みふくし持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな のらさね そらみつやまとの国はおしなべて われこそませ (と続けてから、一息つき)われこそはのらめ 家をも名をも』」唱い終わり、さわやかな気分の桓武帝 「なんだ、陛下、ご存じでしたか」 「ああ」 「その和歌の講釈の後、家持卿は陛下を引き合いに出されましたなあ。なんでも『今の陛下は、御若き時、我が家への行幸のみぎり、我が娘の、【われこそはのらめ】を【われにこそはのらめ】という女々しい読み方に賛同なされたが、万乗の君になられた今では、私めの【われこそはのらめ】の正説をお採りになるはず』とえらく力を入れておられました。ハハハ、1字のことで大げさな、馬鹿馬鹿しくて、すぐさま退散しましたなあ」 聞き終えて、帝 「娘と張り合って自説を譲らぬとは、家持め、頑固な、ハハハ」 笑い終わり、やがて寂しそうに 「そうか、家持はわしのことを思っていてくれたか…」泣き出す。 智麻呂、掛ける言葉を失い、心配顔になる。
その夜、寝所の桓武帝は眠れず、考える。 (確か、永主が押勝のため20巻位まで万葉集を写していたはず。あれはどうなったのだろう) 翌日、使いを永主の処へ遣るが、親類の不幸で不在とのことであった。 気にしていたが、体調の悪化でそれどころではなくなり、崩御の直前、やっと呼び寄せることになる。(第1章、最後の光景に続く)
筆者あとがき ネットで史料調べをしていると、氷上陽侯がいます。この人物が塩焼の妹の説があります(陽胡女王が兄と一緒に臣籍降下して氷上陽侯になり、押勝の室になっている、と)。 だが、筆者は、陽胡女王は塩焼の累でなく、陽侯直身という国司をした人物の身内が、川継の乳母になり、その姓を貴人の名にする習慣から、氷上川継の前々名が陽侯ではないか、と筆者は感じました。紀の編者が、暗黙で教えているのかも知れません(川継が、皇位継承権者だったことを隠す必要があったからか) で、前に投稿した(3章飛翔の時)の陽侯に関する箇所は、書き直しました。
奈良の都から木津川―田原郷―瀬田、約42キロ、マラソン距離を、甲冑を着た兵を乗せた馬が走るのですが、サラブレッド、アラブでない小型日本馬(木曽馬?)の長距離疾走の能力がさっぱり判らないので、想像でこんな設定にしました。
この章では、登場人物に、天皇名を斉明、天智、天武、持統と漢風諡号で、便宜上、筆者は言わせているが、実際は和風の「宝の姫のすめらみこと」「近江のすめらみこと」「明日香清御原の…」「広野姫の…」で話しているのである。確かに漢風諡号は2年前に、淡海三船が、淳仁帝に一括撰進しているが、臣下らに浸透せず、彼ら登場人らは山部を含めて、漢風諡号を未だ知らないということに、留意してください。 最終回の次章W(千年の都へ)は難渋しています。
惠美押勝の乱の地図は http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/A14/A1411.htm にありました。参考にどうぞ。
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