■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

平安遥か(V)飛翔の時 作者:ゲン ヒデ

第1回   1
平安遥か(V)飛翔の時

不破内親王
 梅雨の合間の晴れた日、孝謙上皇は校書殿で、書の臨書をしていた。
渡戸で、仕える法均尼(和気清麻呂の姉)が騒ぐ。
「お上は書を学ばれておられます。内親王様、も少し、お待ちください」
「よい、よい、じっと待っておれぬ…。姉上様しばらく」疳のきつそうな中年の乙姫様が、無遠慮に入る。(浦島太郎の絵に出てくる乙姫の髪型、衣装は、この時代の高貴な女性がモデルである)
この女性、聖武天皇の末娘、不破内親王である。
井上内親王の実妹で、40歳位、上皇の異母妹でもある。
「あら、写経じゃないわね。それ何の書」
書写の邪魔をされた上皇、
「王義之の蘭亭序」
と言い、筆を仕舞う。
「ああ、聞いたことあるわ。それ頂戴」
「簡単に頂戴といわれてもねえ、真筆は太宗(李世民)の墓の中よ」
「じゃあ、模写なの。じゃあ要らない」
 上皇内心ほっとする。
 真筆を当時の最高の書家が臨写した物で、遣唐使が持ち帰ったのである。 母、光明子がこれを臨書したのが、正倉院に残されているが、これが、現代まで伝わっていたら、東洋の至宝になっている代物である。
 不破内親王は、幼い頃から、姉達が持っている物と同じ物を欲しがる癖が強かった。

「今日は何のよう」
「夫の役職のことよ。式部卿にして頂戴」
「式部卿ではなく、文部卿でしょ」
「ああ、そうそう文部卿。覚えにくいわねえ。押勝ったら役名を全部換えてしまったから、紛らわしいわねえ。中務部でなくて信部卿か、それを辞めさせられて、美作の守だけになっているのは、堪らないの」

【この妹の夫は氷上塩焼という。臣籍降下前は塩焼王と呼ばれ、毛並みのいい皇族であった。二十数年前、結婚後に、聖武帝に引き立てられ中務卿になれたが、帝の留守中、女嬬らと乱痴気騒ぎを起こし、帝の逆鱗に遭い伊豆へ流刑となる。その間、不破内親王は自邸(後の唐招提寺の地)に引き籠もっていた。その時に実弟、安積が死去したのである。葬儀の時、父聖武帝に懇願したので、夫は許されたのである。この汚点により、彼は皇太子になり損ねた。だが、不破内親王の婿の立場が幸いして、波乱があったが、位を上げていった。3年前に再び中務(信部)卿になるが、間近に淳仁帝に仕える職務に嫌気が差してくる。本来なら自分が帝なのに、と腹立たしかったのである。それを感じた淳仁帝は、中務卿を押勝3男、久須麻呂に替えた】

「不破、簡単に文部卿へと云うけど、今いる者達の人事異動が伴うのよ。今、押勝との間が難しいので、口を挟まれないのよ。秋の除目まで待ったら」
 今、変に人事に口出しをすると、押勝が巧妙な人事配置をする危険があったのである。
「あら、お姉さま、助けてくれないの。姉(井上内親王)の夫には厚遇して」
「お前のため、嫡男の陽侯を正4位上までしたじゃない」(他戸は無位である)
 上皇は自分の重祚後、妹の子を東宮にする腹づもりをしていた。
「でも役職がまだ無いわ」
「無理をいわないで。まだ18にもならないのに」せっかちな妹に呆れる。
 法均尼が入り、
「井上内親王様が、参内なされましたが」
「姉が…。不破、一緒に行きましょう。姉と会うのは久しぶりじゃないの」
「いいわよ、帰るわ。姉のノンビリした口調を聞いていたら、イライラするから」
 さっさと妹は退去する。上皇ため息をする。
 そして姉を待たしている座所へ急いだ。       

     腹踊り再開
 異母姉妹ながら、井上内親王と上皇の仲は非常に良かった。
 姉は参内すると、おっとりと楽しい話題だけして、妹の心を和ませる。
 妹、不破内親王と違って、夫の地位や財貨をねだることはせず、政治事には触れなかった。(白壁王が言い含めていたのであろう)

 その日、昔の白壁王の腹踊りのことを、上皇の入室を見計らって、待っている井上内親王に、それとなく話題にした者がいた(どうも藤原百川らしい)。
 
 それを立ち聞きした上皇は、数日後、白壁王が職務で伺候し、退出する際、腹踊りを所望した。
 さすがに困った王は、素面ではとてもとても、と辞退する。ところが、酒は、百川が手際よくすでに用意していた。唐伝来の酒造法で造られた、濃い酒である。
 で上皇は酒を運ばせ、自ら手酌をしたそうである。恐縮しながら、誘惑に負けた風情で、白壁王は飲む。数杯終えると、酔った王は、自ら腹に墨で顔を書き、綾麻呂の話を思い出し、即興の歌を歌い、踊り出す。

『ああ、それ、それ、それ、それ、麻呂はまいるぞ、麻呂はまいるぞ、佳か乙女、ああ佳か乙女(上皇に近づき腹を捻る、上皇笑う)ああ、それ、それ、そっと忍べば、そっと忍べば、何処が寝所か、何処が寝所か、しかと判らぬ、しかと判らぬ、ああ、それ、それ、ああ、それ、それ、やっと見つけし、やっと見つけし、この寝所、この寝所、しめしめ、しめしめ、顔を触れれば、顔を触れれば、なんぞこの髪、なんぞこの髪、あれま、しまった、あれま、しまった、親の髭なり、親の髭なり、あらま、気づいた、あらま、気づいた、さっさ逃げろや、さっさ逃げろや、おっと転げた、おっと転げた…』
 といって人から叩かれる仕草で終わる。
 上皇は、腹を抱えて笑ったそうである。

   押勝の誘い
 7月に入った。真夏である。前日までの雨が止んで、この日の朝はさわやかであった。 向かいの惠美押勝邸に寄ると、良継からの密書を受け取る家宰が、いつもならそのまま帰る山部を、呼び止め、邸内寝殿前の庭池の東屋へ案内した。押勝と、ある貴人が話している。
 氷上塩焼である。のほほんとした表情で云う、
「ああ山部君か、しばらくだね。お父上はどうなされのかね、この頃、役所では出会わないが」
「夏風邪で伏せっていましたが、まもなく出勤できるしょう」
「お父上は、健康に気を付ける方なのに、珍しいねえ」
「何故か、酒の飲み過ぎで油断したとか、本人がそう言っていましたが」
「お大事に、とお伝えくだされ、では、太師(太政大臣)様、先ほどのこと、よろしくお願いします」
「及ばずながら、力を尽くしますぞ、塩焼王殿」
 賜姓されたので王では無くなっているが、押勝は氷上塩焼の歓心を得るため王といったのか。とにかく、味方を増やしたかったのであろう。
 丁寧に、帰る氷上に頭を下げていた。

 氷上が消えるとほっとして、山部にやさしく云う。
「山部君、宿奈麻呂(良継)の手紙、いつもご苦労様。ああ、これからは、宿奈麻呂に直接来てもらって、詳しく話を聞きたい、と伝えてくれたまえ。君は内容を知らないようだから。で、お父上のことだが、上皇さまの無理強いの件で、気に病むことがあったのではないのかね」
「はて、何の事でしょうか」
「ああ、君は聞いていないのか。上皇のご要望で、御前で腹踊りをさせられたそうだが、半月前かな」
 来ている密書に書かれていたのであろうか。
「へえ、久しぶりに、また始めましたか。父はそんなことで悩みませんが。あれを人に見せるのを北の方(井上内親王)様に止められて、残念がっていましたが、上皇様の御要望なら、晴れて披露できるでしょうなあ、ははは」山部笑う。
「わしの思い過ごしか」残念そうである。
 上皇との不和があれば、味方にしようと思っていたのである。

「その話はいいとして、都では不審火など、不穏なことが起こるので、近々、諸国の兵を集めて、都督衙で訓練するのだが。どうかね山部君、指揮の役人にならんかねえ、すぐ従5位下に推挙するよ。いまだに無官だと困るだろう」
「ご配慮感謝しますが、当分はこのままでいたいのです。宮仕えより、舅の手伝いの仕事がおもしろいので」
「そうかねえ、残念だねえ。いま帰られた氷上塩焼殿は、文部(礼部)卿に推挙してもらいたい、としつこく頼みに来られるが。人、様々か」
 白壁王を味方に引き込むための誘いであった。

 山部、日頃の疑問を聞こうと思う。
「失礼な事ですが、ちょっとお伺いしたいのですが」 
「何だね」
「あなた様と上皇様は、昔、男と女の深い仲だったと、聞きおよんでいますが、何故、今は不仲でしょうか」
「ああ、その事か。実はなあ、押し倒して勝てなかったのだよ、はは。あの方は、女としての喜びを、得られぬ質でなあ、あの手この手と懸命に頑張ったが、しまいには、妾を馬鹿にするのかと、嫌われた。あれは、病かのう」押勝、池の水辺を眺める。
「それは不感症という病でしょう。漢薬や鍼で治ることも有る、と医書にありましたが」
「それも、試みてもらったが、医者も鍼師も匙を投げた。近親婚の障害かもしれぬと云うてたが」(母、光明子と父、聖武帝は異母の叔母と甥である)
「はあー。そういうことですか」
 天下を揺るがす不仲の遠因が、そんなことなのだったかと、山部は拍子抜けした。
 話が終わり、山部は押勝と別れる。

次の回 → ■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections