竹柵を見ながら、不比等が出雲神話を謡っている。前で座るこの屋敷の主人・多品治は、感心しながら聞いていた。終わると、この朝廷の高官は言う、 「いやはや、石見国司(柿本猿)殿から教わったのを、写した漢文から、正確に我が国の言葉でよく謡えるものよ。すごい記憶力よなあ」 「それだけが、取り得でして」不比等は謙遜した。
「不比等殿、その本の初めに、稗田阿礼という名が書かれているが?」 「神話を書取るための筆名です。学んでいる書き物を見分けるために、それぞれ別の仮名を付けています」 「そういえば、歌集に柿本の某(なにがし)の筆名を付けていると、猿殿から聞いたことがあるが」
「まことに申し訳ありませんが、急ぎますので」 「わかった、すぐさま旧辞を謡おう。だが、出世による職務がきつくてなあ、この頃、謡っておらん。忘れた処も多いかもしれぬが」 「あちらこちらで、集めていますから、突き合わせて、何とか元にします」 「じゃあ、謡おう」
二時間ほどで、古事記のワマトタケルの物語の部分を歌い終えて、夕食を共にしていたとき、少し酔った品治が、言う、 「内緒の話だが、十市の皇女(ひめみこ)さまが、賢所で亡くなっただろう」 「自害だとか」 「あれは、草薙の剣の祟りではないか、と思えてならぬのじゃ」 「草薙の……あそこのは、写しで、本物は熱田神宮にあるのでしょう」 「いや、賢所にあるのが、本物じゃ」といい、新羅僧・道行に盗ませた経緯を明かす。
不比等は驚く。そして訊く、 「では、その新羅僧は、どうなっています」 「尾張の国で、寺を建立してもらい、ぴんぴんしている」 「その者に祟りはなく、王家の人に祟りですか」 「あの僧は、元々は、新羅の間者だがね」 「間者!捕まえて処罰しなかったのですか」 「それは出来ぬなあ。新羅と争乱でも起こらぬ限り、そっとしておくのが、我が国の態度さ」 「では、新羅から来ている僧は」 「ああ、全員、新羅の間者だ。間違いない。だから、不比等どの、彼らに関わらぬようにな」
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