天武七年(六七八)夏四月七日、倉橋川の斎宮で修行する十市のため、天武は自ら先導の、大がかりな、斎宮への行幸を始めた。 朝四時に行列の先発が出て、天武が七時頃、馬に乗り、宮殿の門を出た時である。 賢所の中年の巫女が、十市に、(身につけている世俗の物は取り去り、潔斎用のに着替えるのです)と説明をしていた。 その巫女、十市の挿したかんざしを見て、 「うわあ、きれい。しばらくは、身につけられませんねえ。惜しいでしょうが」といい、 代わりの斎王の服や装身具を取りに行った。 一人きりで、ぼんやりと、三つの櫃(神器)を見ていた十市は、かんざしを抜き、何やら床に字を書いてから、首に突き刺した。二十四歳の若さでの自害であった。
やがて、天武が、都のはずれに差し掛かったころ、急報の馬が駆けてくる。 知らせを聞き、天武が戻ると、遺体の周りで、額田や、讃良ら家族が泣き伏していた。 天武は「なぜこんなことを、なぜ……」と叫び、十市にすがりついて泣き出す。 「あそこに遺書が」と讃良が床を指した。 そこには、(夫に仇なした天照魔神や高市に仕えるより、亡き夫に仕える)との意味が書かれていた。 天武は、軽はずみな言動をしたことを、泣きながら後悔する。 と、ふと、除られている、血塗られた、かんざしを見つける。 (有間が讃良に贈るため、定恵に頼んだカンザシではないか!ああー……)驚愕して、天武は、気を失った。
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