文武の治政四年の大宝二年(七〇二)秋に、反対を押し切った東国への行幸を終えて、藤原京に戻った持統は、まもなく崩御するのだが、亡くなる前、こっそりと阿閉(後の元明天皇)を枕元に呼んだ。 「阿閉、もし、軽(文武)が、若くして亡くなることがあれば、一歳のひ孫・首(おびと・後の聖武)が大人になるまで、あなたが皇位を継いで。そして、あなたが続けられなくなったら、あなたの娘のどちらかに、皇位を譲るのよ。首が無事に即位した後は、天にまかせましょう」 阿閉が驚き、言う、 「お姉さま、そんな縁起でもないことを、何故言われます」 「許してね……老婆心からね」ほほえみ、持統は続けた、
「葛野のことだけど、本来なら、大友帝の子の、彼(あれ)が皇位を継ぐはずよねえ……」 「葛野をどうせよと……、まさか、除けと……」 「違うの、今、病がちの彼は、長生きしないでしょう。彼が亡くなれば、墓の中に、あなたと、軽、宮子、長屋(王)とか主な皇族が臣下として葬列している姿を描いてあげて。彼の子孫は天皇になれぬから、死後の世界だけでも、天皇として遇してあげるのよ、兄への償いでもあるの」 阿閉は不思議がる、 「お姉さま、葛野の子孫が皇位に付けぬ、と何故わかるの?」 「なんとなく……。それから、役人たちの仕事が疎かにならないように、わたしの葬儀は、簡素にしてね」 「はい」 「それから、わたしの亡骸は火葬にし、骨壺を、夫の墓に入れて」 「火葬! そんな……!」阿閉は絶句した。 当時は、僧侶か、熱列な仏教徒しかしない行為である。 「いいの、肉体を焼かれ、煙となって、空に立ち上り、風に吹かれ流されたいの」 持統は目を閉じ、何やら口ずさんだ。 数日後の十二月二十二日、雪景色に包まれた藤原京では、文武天皇以下親族、近臣らが見守る中、持統は崩御した。享年五十八歳であった。
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