翌年の春に東国へ行こうと考えていた持統に、ある皇女の死去が伝えられてから、秋に変更された。 亡くなったのは大伯である。四十歳での寂しい死去であった。 不比等に、誄(しのびごと)を頼むと、大伯の住まいへ行った不比等、夕方には、大后の元に戻り、 「わたしには、誄(しのびごと)は作れません」と泣きながら言い、木簡を差し出した。 そこには六首の和歌があった。 …… …… …… …… …… …… いろ背(実弟)竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来る時に、作る 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁(あかとき)露に 我が立ち濡れし(万2-105) 二人ゆけど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ(万2-106)
伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上(のぼ)る時に作る 神風(かむかぜ)の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに(万2-163) 見まく欲(ほ)り 我(わ)がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに(万2-164)
いろ背を 葛城(かづらき)の 二上山(ふたがみやま)に移し葬(はふ)る時に、作る うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我(あ)が見む(万2-165) 磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに(万2-166) …… …… …… …… …… …… 書かれた漢字を読み解いて、つぶやくこと六回、終えると、持統は号泣する。 不比等も泣きながら、言う。 「大津の皇子や大伯の皇女、山辺の皇女さまに、まことに申し訳ないことをしました。大伯の皇女は、その六首だけ残し、他の多くの和歌は焼き捨てられたとか。なんと悲痛な思いで、生きられておられたか。……私は歌を止めます。そんな資格はありませぬ」 二人とも、泣き崩れていた。
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