催馬楽を見終え、自分の宮へ戻る途中、草壁は、側近の舎人・藤原不比等に話しかけていた。 不比等は、柿本猿の引き立てで、宮中に上がり、すぐさま、治安役の役人を兼ねた、草壁皇子付きの舎人に、取り立てられている。
「なあ、不比等、わたしは、和歌はにがてだ。お前、代作してくれないか」 「代作は良くありませぬ。つたなくても、ご自分の思いを伝えれば、女(おなご)は、ほだされます。代作だと、すぐに見抜いて、皇子(みこ)を軽蔑しましょう」 「なるほどなあ……」感心して歩いていた草壁、
「ところで、不比等、お前の和歌を聞いたことがないが?」 「和歌は、まだまだ未熟で、励むつもりです」 「おまえに、頼むのは無駄か、はは」 自分の歌集の筆名を、柿本人麻呂としていた不比等は、和歌という趣味の世界を深く極めるため、歌集を編纂したが、人に見せるものではなかった。ただ、死去した皇族への誄(しのびごと)で、長歌と、まとめの短歌を披露し、挽歌作りの才があるとだけ認められた。それも葬儀で詠われたら、あとは内容を忘れられる。 のちに歌集は、柿本猿の妻(多治比嶋の縁戚)に渡り、その縁で大伴家に渡り、万葉集に載る。 後世、自分・不比等が、歌聖と仰がれた自分・人麻呂を水死刑にした、との説が出て、評判になったと知ったら、草場の陰で苦笑いしているだろう。 柿本人麻呂について、諸説が出る原因に、不比等が師匠、柿本猿(岩見の国司に出世した)の和歌を手本として、自分の歌集に載せたので、不比等とは、思いもされなかったのだろうか。
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