気が付けば、老婆がじっと見ている、 「女官さま、座ったままボーとなされていましたが」 元の粗末な家屋の中に戻っていた。 「アア! ……急に眠気がしたので」といい最後の柿の葉寿司を口に入れた。 「おいしいかったわ!」といい、礼として紅玉の数珠を渡すと、恐縮しながら礼をいう婆さんを後にして、外へでる。 馬を引いて待っている男がいた。心配そうな表情をした藤原不比等である。 「陛下、探しましたぞ。勝手に出かけられては困ります」 「詩斐から聞き出したのか?」 「陛下がおられぬので、問いつめました」 「詩斐は口が軽いこと」大后は笑った。 馬に乗り、ゆるやかな坂道を下る大后は、手綱を引く不比等に話しかける。 「不比等、律令作りは進んでいるか」 振り返り、不比等、 「手本の唐の律令を、我が国の実情に合わせるように変えるのが、なかなか難しく」 「急がずともよい、日にちがかかっても、満足できるのを作りなさい。」 「ご期待に添えるよう、頑張ります」 「なあ、不比等、わたしは、身勝手な女であった。自分の子、自分の孫、ひ孫たちに営々と皇位を続けて貰いたいと願っていた。じゃが、私の子孫が大王家を継いでゆけるかどうかを心配するのは愚かしいこと。大事なのはこの国の民の行く末、それにふさわしいなら、わたしの弟たちの子孫に、大王家が継がれてもいいと思う。今は民の幸せのための国作りにはげむ」といい、風の歌を歌い出す。 聞いていた不比等は、奇妙な呪文をまた始められたかと、前を向き、手綱を握り返し、馬をひく。 大后は、風の歌詞の「振りかえらず ただ1人 1歩ずつ 振りかえらず 泣かないで歩くんだ *注1」 の箇所に、これからの自分の生き方を、教えられたのである。 吉野を去るとき、大后は思った、 (神頼みのためでなく、ここの景色を楽しむため、もう一度だけ来たい) 今まで、天の啓示を受けようとして来た吉野だが、周囲の景色を楽しむ心の余裕がなかった大后は、いまさらながら後悔したのである。 *注1,「風」( 作詩 北山修 作曲 端田宣彦 歌唱 はしだのりひこ とシューベルツ) の一節
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