新羅僧・行心を、ぐうぜん見つけた、舎人・ト杵道作(ときのみちつくり)が、主人の大津に報告したのは、宮中南庭での最初の殯(もがり)九月二十四日の四日後、二十八日だろうか?
「あの僧、こっそりと、民家の稲倉に入り込み、出ていった後、田辺史大隅という者が、出て来ました」 「何者だ?」 「書記の下役人ですが、藤原不比等の学問の手ほどきをした師で、今も藤原邸へ出入りしています。どうも、藤原家の走狗ではないかと」 「走狗!」 「皇子、あの新羅僧と何かありましたか」 「父の病平癒の祈祷を頼みに、飛鳥寺に出かけたとき、わしを見て驚く顔をしてな。この屋敷にきて、『人相学では、あなたさまは、将来天皇になられる』とか、おだてて、かってに出入りして、わたしに世間話をするが、……不比等は、謀略家、鎌足の子、なにかある……」 「なぜ、わたしめに、話してくれなかったのですか。女官を春宮から奪ったのを、皇后さまが不快に思われた、とのうわさもあります」 「あれは、兄も同意したこと、……あ、人相の話、この前の殯(もがり)で、川島の兄貴(天智の子)に喋った、しまった!」 自分を取り囲む、ただならぬ事態に気づき、大津は、その夕刻、この舎人だけ連れて、伊勢へあわただしく向かった。 すぐさま、その情報は、不比等に知らされた。その晩、持統の元に出かけた、不比等、 「陛下、ゆゆしき事が起こりました」といい、川島皇子の密告(不比等の、それとない脅しにより、僧の《天子の相》の言を、笑って大津が言ったと、喋ったのである)を報告し、大津がこっそりと伊勢へ向かった事を話す。 「伊勢へ? 何をしに……」 「天照大神へ、反逆の成功を、姉に祈らすためではないかと」 「大伯に、まさか?」 「失礼ですが、大行陛下(天武)もそうでしたが。……とにかく、迅速な対応が必要です」 皇后は悩んだ。だが、 「たしか、六十年ほど前、唐の李世民は、兄を殺して、太宗になりましたが、……」 この不比等の促す言葉で、決断してしまった。
九月二日、伊勢から帰ってきた、大津は捕らえられ、弁明の機会も与えられず、翌日に処刑された。二十三歳の若さである。 そして処刑地へ妃・山辺皇女が髪を振り乱し、裸足で駆けていき、剣で自殺するというすさまじい殉死に、皆が驚いた。そして、明らかにえん罪だと、誰もが思う。 持統と草壁への世間の目は、冷たくなる。草壁すら、母親を避けだした。
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