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龍の落涙(元和二年 伊達政宗の風聞騒動) 作者:GART

第9回   東奥老士夜話
政宗は厠に立ち小姓が手水を持ってくる。
政宗は平素変らぬ執務を終え、昼過ぎには自慢の茶杓子を使って茶の湯を振る舞い日が暮れるのを待った。

 前日、成実と大喧嘩した際に草木が眠る丑三つに前後策を練る約束をしたからだ。
 ただ日中は二人して呑気に能を舞い酒に酔いしれる演技してからだ。
 
 丑三つになり、仙台城本丸大広間から長い廊下を南に下ると政宗の私館「大奥」と呼ばれる表御寝所があり、その隣の部屋にある「御座の間」において、政宗と小十郎、成実がいた。

 仙台絵図を囲んで成実は神妙な顔つきで、
「殿、今からでも外堀の他に堀を造っては如何か」
 と口火を開く。

「待て」
 政宗は制する。
「昨夜、わしの寝床に柳生宗矩が来た」

「なんと」
 成実は狂わんばかりの驚きの声を上げた。
「按ずるな。宗矩は、この政宗に謀反の意思なしと知っておる」

「信じられるますかな」
 成実は疑心暗鬼の視線を注ぎ、政宗は顎に手をあてて頷くのみ。

「成実よ、まだ合戦とは決まっとらん。ヘタに動けば秀忠側近の誤解は現実の物になる。早まるな」
「しかし殿、仮に柳生が助け舟をくれても大勢は決まったような物でござろう。それにしても柳生がまだ城内にいたとは」

 成実は声を震わせた。
「確かに柳生だけでは無理だろう。それ故に、この評定はあくまで念のため開く」
 政宗は念を押す。

 政宗には勝算があった。
 柳生に真意が伝わり、懐中には香り豊かな書状と磯の香りがする書状二つがある。
 この二つの書状は幕府と戦わず守りきれる活路になるだろう。

 ただ微妙な状況ゆえに秘匿せねばならないのだ。
 もし他者に漏れればひねりつぶされる。
 徳川幕府とて一枚岩でなく、家康の側近と秀忠側近とが勢力争いしている。

 強いて申せば、本多には絶対に知られては困るのである。
 ここ一連の幕府内での権力闘争は急成長している新参者の本多が、古参の大久保勢力一掃で、ない腹を暴き立てている。

 廃絶となった忠輝の最初の家老は、あの大久保長安である。
 要は伊達は忠輝と離縁しても大久保派と見られても仕方あるまい。
 大久保一門は家康の側近ではあったが、秀忠の側近は一人もいない。
 
 家康亡き秀忠の徳川幕府は、ここ数十年の人脈とは違う顔ぶれに変化している。
 伊達にとって有利なのは、柳生の存在である。
 今まで秀忠側近として小さくなって働いていた柳生は日の出の勢いなのである。

 政宗は柳生に中元・歳暮は欠かしていない。伊達家治記録にも柳生への心配りは
細かく書かれている。余談だが、この元和二年の年末には江戸の柳生屋敷に政宗や成実は招かれ御馳走になっている。

 平素の御礼のお返しであるのは明白。
 しかも柳生の一門を大枚はたいて家臣に加えている。家臣の柳生権右衛門は宗矩の兄・巌勝(よしかつ)の子で、宗矩の甥っ子にあたる。

 狭川新三郎は宗矩の門弟であり、柳生宗矩の妹の娘婿。いわば次世代柳生の大柱に
なる逸材を仙台に仕入れたのだ。
 むざむざこの一大仕官先を単なる流言で潰されるのは柳生とて本意ではあるまい。

 成実らに語れぬ胸中なれど生き残れる余地が僅かなれど出来つつあるのだ。
 ただ風説に身を任せていると士気が低下し崩壊するのを恐れて最悪の事態を想定して試案を開始しただけなのだ。
 
 政宗も小十郎も成実も眼が窪み、疲労の色は隠せない。なんの手立てがない以上、こうして評定しているのが、せめてもの救いの気休めに思えて来る。
 政宗は笑う。

「皮肉な物だな。天下を望むために派遣した支倉が伊達の命取りになるとはな。いずれにしろ支倉がイスパニアと交渉成立を期待するしかあるまい」
「それでは当初の目論見と同じでは」
 
 成実の問いに政宗は苦笑いする。
「そうだなイスパニアに江戸湾にて暴れて貰う」
「殿、考えましたな。さすれば後方撹乱に使えますな」

「後方撹乱だと。ケチな事を申すな。わしの伊達丸に乗り込んで行ったビスカイノは、イスパニア太平洋艦隊の司令長官ぞ。わしは天下を狙うつもりじゃ」
 成実は政宗の法螺を聞いて高笑いする。
 
 政宗はかぶり振る。
「ただ正直、交渉が成立したかは分からん。だが伊達が合戦とあらば長崎や伊勢辺りを荒らすために駆けつける日数はある。徳川も伊達攻めに専念出来まいて。ヘタすれば天下も手中にはいる」

「おお独眼竜の真髄ここにあり」
 イスパニア国王フェリーペ三世は、インド顧問会議(新大陸植民地行政問題を取り扱う国王の諮問機関)が、政宗が信者でなく日本国の地方の王であり、日本の宣教師から虐待の報告があり慎重に対処すべしとローマ行きを反対したが、独自判断で旅費を出す。
 
 帰りのノビスパニアでは銀持ち出し禁止で、イスパニア商品との交換が進むまで出帆出来なかった。
 既に横沢将監が伊達丸「サン・ファン・パブティスタ号」で相模浦賀湊から無事出帆した報が届いた。日付は八月二十日。
 
 伊達丸は一旦、堺まで下って改めて太平洋の黒潮と季節風に乗ってノベスパニア(メキシコ)アカプルコに渡ったという。
「だが、ここに来て万が一の迎撃策を練らねばなるまい」

「殿、久々に頼もしい物言いじゃ」
 成実も一歩膝を前に乗り出す。
「わしは秀忠を生きて江戸に返す気はない。悪くても相打ちにして武門の誇りとして死にたい」

「望む所でござります」
 小十郎が興奮気味に同意する。

「わしがあくまで懐柔策に終始するのは、元々天下を諦めて徳川の泰平に寄与するつもりであった。されど風説が我らをそこまで追い込むのならば致しかたない。秀忠十万騎を奥州まで誘(おび)き寄せ鎧袖(がいしゅう)一触(いっしょく)の勢いで殲滅(せんめつ)してくれるわ」

「面白い。されど徳川は少なくとも十万いや三十万。仙台を根城に闘うつもりか」
 政宗は成実の問いを否定する。
「古来篭城(ろうじょう)は負け戦と決まっている。仙台城を囮(おとり)にし、秀忠が城を包囲せんと広瀬川まで来れば・・・」
 
 ここで政宗は口を閉じ成実と小十郎の顔を交互に覗く。政宗の眼窩に妖炎が浮んだ。
 成実はハッとしてほくそえんだ。
「鉄砲水で徳川本陣を押し流すわけか」
 
 成実の声に政宗は大きく頷き、
「それだけではない。動揺した徳川勢のど真ん中に水軍が塩釜から上陸して夜襲をかける。いったん崩壊した広瀬一帯は湿原地帯となり足がとれぬ。小船にて要所を寸断する」

「なるほど」
 成実が膝を打つ。

「であれば、仙台城に経費をかけて修築するは愚。また謀反の嫌疑をかけられるやもしれぬ修築など必要ない。どうじゃ成実」
「恐れ入り申した」
 
 この迎撃案は江戸時代に「東奥老士夜話」として残っている。

 大きく四つの幕府迎撃策が練られていた。
 一つは、仙台城に流れる広瀬川を河口の藤塚で堰き止め、失地帯になった青葉城下を攻め悩む幕府軍を後方より挟撃する案。
 
 二つは、懐かしい大膳大夫政宗の拠点である伊達郡にて迎え討つ案。
 これも阿武隈川を堰き止め、伊達朝宗の墓がある桑折周辺で正面から強襲して追い返す方法。
 
 して三つ目は、桑折より北の陸羽街道に、馬牛沼という峡谷があり、そこを通過する際に強襲する。いわば政宗による桶狭間攻め。
 この案の魅力は秀忠がこの狭間を通るまではよく機密にさえしておれば事が足りる。
 
 四番目は、松島より北の月の浦にて持久戦に持ち込むという案。またいりくんだ湾内には水軍が上陸を繰り返し後方を撹乱させる。
 それらが徒労に終れば瑞厳寺にて篭城あるいは出羽に逃げる、という案。
 
 案はいずれも良く練られているが、どれも政宗には頂けない。
 やはり五番目の案として、秀忠側近の不安に乗じて懐柔し、その後は幕府の先導的立場を逆に握る事。その方が独眼竜らしい。
 
 救いは二百年前、中興の祖である初代大膳大夫政宗が鎌倉公方足利満兼の命令により上杉禅秀の九万七千の軍勢を赤館(あかだて)にて半年踏ん張り退散させた過去があった。

 大膳大夫政宗は、なんと敵の大将を生け捕り、かつ九万七千を手玉に取ったのだ。
 五月からの包囲網も十一月には寒さにて和睦せざるをえない粘り強い持久戦を半年に渡って繰り広げたのだ。

 詳しくは「異聞 政宗記」を御参照下されば幸いである。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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