政宗は深い黒漆(こくしつ)の眠りから覚めて来る。 襖を隔てた外から聞き覚えする喜平次の「殿」と呼ぶ声が聞こえる。 政宗は布団から身を起こす。
「喜平次か」 「はい」 「お会いしたいという方が参っておりますが」
「こんな刻に誰ぞ。また成実か?」 「いえ。柳生但馬守宗矩という方、是非この時刻でなければお会い出来ないと」 宗矩と聞いて政宗は蒼白になった。
「まだ江戸には帰ってなかったのだな」 宗矩は三日滞在し一ヶ月前に江戸に下向したはずであった。 一人戻って伊達の様子をそっと観察していたのであろう。
宗矩は家康・秀忠の二代に渡る指南役を承り、今年で四十五歳。 剣豪としても男盛りで嫡男の十兵衛は九歳になったばかりである。 宗矩が心強いのは、柳生の剣は「活人剣」という伝家の宝刀は抜かずに済めば、それにこした事はないという道を説く。 従来の秀忠の指南役である小野次郎左衛門忠明の殺人剣とは根本的に違う。 小野の抜けば玉散る氷の刃は、武を持って天下に威光を示す剣で、いわば覇者の剣には違いないが、猜疑は際限なく続き恐怖政治へと変貌するのは世の常である。 秀忠について関が原では上田攻めの功績が認められ上田七本槍の一人と上げられる兵でもある。 夢想剣という切り落としで天下の政を切盛りされては堪らない。
「なるほど。喜平次でかした。されど着替えていると時が過ぎる別の部屋に通しておいてくれぬか」 「いえ、既に殿の傍らに居られます。火急の用だと申しておりますので」
「そうか相分かった」 すると襖が開き、平伏している宗矩の姿が見える。 「宗矩殿またお会いするとは奇遇でござるな」
「陸奥守殿、こんな時刻にお目通りを願う無礼をお許し下さい。これも火急の用事なればでござります」 「構わぬ。わしもそなたに会い、じっくり話したかったのじゃ」
「有り難いお言葉、恐悦至極」 「何を申すか、そなたは伊達の指南役であるぞ」 宗矩は改めて平伏した。
「こんな格好で申し訳ない。もっと近くで話そうぞ」 宗矩は中腰で政宗の床まで来る。 「よく無事に、ここまで来られたの。伊達の領内を突破して城まで来るのは大変だったろう」
「確かに城内潜伏容易ではござりませんでした。殿の配下にある柳生権右衛門、狭川新三郎両名の手引きによってかろうじて」 宗矩は言いかけて平伏した。 権右衛門は宗矩の兄・巌勝(よしかつ)の子で、宗矩の甥っ子にあたる。 狭川新三郎は宗矩の門弟であり、宗矩の妹の娘婿。 いわば柳生一族の一人である。 彼らに絶大な信頼は置いてはなかったが、やはり逐電されていたのは恐怖である。
「やむをえまい。互いに任務遂行ゆえ覚悟の上の出来事じゃ」 「かたじけない」 「で義は?」
「政宗殿謀叛の真偽をこの眼で確かめに参りました」 宗矩は政宗と目を合わせる。 政宗の脳裏に舞いで遊びほうけた姿や成実との喧嘩が交錯した。
どこまで探索されているかは今となってはどうしょうもない。 「で、真偽のほどは如何に」 「むろん誤解と相分かり申した」
「それはかたじけない。このわしは幕府に弓矢をひく所存はない誠じゃ」 「それは存じておりまする」 「だが将軍側近はそうは思ってくれんのじゃろうな」
「少なくとも某が江戸立つ時は」 「埒もない」 「されど、この目で領内をつぶさに見届けました所、偽りと分かり申した」
「それを江戸の側近らは信じてくれようか」 「我が柳生の言葉は天の声、この身を代えても誤解を解きましょうぞ」 「それは頼もしいが、そこまで伊達をかばい立てても何もないぞ」
「いえ天下の御政道を正すのが柳生の務めでございりすれば、謀叛の意思なき者を殺めれば笑い者になりましょう」 「有り難い。だが、わしは世間では鰻のようにすり抜ける隻眼竜と言われた男、今さら側近らがわしを許すであろうか。わしもかなり意味深な行為は過去にしておる」
「政宗殿は既に片目なれば、世間も片目を瞑って頂けるはずでございます。世の中多少のすれ違い穏便に解決して頂かねれば世間の物笑いばかりか指南役柳生も、お役目を無事に果たしてない事になり将軍家は元より伊達家にも申し開き出来かねます」 政宗の左目が潤んだ。 「わしはこの度の一件、かならずや柳生が確認に参られると信じ、不安ながら酒飲んで気晴らしの日々であった。家中の主だった者にしか告げず、しかも何もさせないのが、わしの命綱であった」
政宗は宗矩の手を握る。 「よろしく頼む」 「御意。では人目につかぬように、これにて御免」
「待て宗矩殿」 襖を閉める宗矩の手が止まる。 「いくら説得しても柳生が泥を被るまで庇い立ては、この政宗は許さん。よいですかな」 宗矩は目を伏せ、 「御免」 と消えた。 政宗もそのまま鶏鳴が聞こえる朝まで又寝られなかった。柳生がどこまで誤解を正してくれるのやら。
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