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龍の落涙(元和二年 伊達政宗の風聞騒動) 作者:GART

第5回   束の間の晴天
           三 

 晴天の仙台城。これが本当の空なのか。
 昼間から酔った政宗は側室香(こう)の前(まえ)を連れて歩いている。
 香の前は秀吉から掛け囲碁で勝った際に豊臣家との結びを強くするがために賜わった。
 
 船のように左右に揺れる政宗も香の前も、疲れたのか歩むのを止め、肩で息をする。
 歳は一つ違い。
 政宗が五十ならば彼女もよい歳である。

 上杉謙信や織田信長ら戦国大名の多くは五十の坂を前にして露の如く消え失せた。
 どうやら五十の坂は越え難い。

「どうした疲れたか」
 香の前は頷く。
「すまんの、少しでも夜空の星に近づきたいゆえに山の上に城を築いた。今となっては、儂(わし)も後悔するわ」
 
 香の前はかぶり振る。
「おことは初奴(ういやつ)じゃ」
 政宗は苦しそうに扇子で左胸を三回叩く。

「殿、胸がお苦しいのでは」
「そうじゃ。おことがあまりにも愛(いとお)しいのでな。心(しん)の臓がうづきよるわい。花は移ろい、月は満ち欠け、雲は雨になり水は低きをさがして川になる。自然に逆らえぬ。小鳥たちが求愛するように、わしにはそなたが必要という事じゃ」

「まぁ殿、お口が上手に遊ばされます」
「何を言う。儂は嘘が嫌いな男ぞよ」
 政宗は高笑いする。

 政宗は本丸に続くこの坂を心臓破りの坂と銘々した。一休みして本丸に移る。
「殿、どうぞ」
 政宗は白拍子の酌にて酒を飲み、本丸大広間にてお国歌舞伎に見とれている。
「天下泰平じゃ。わしは天下を取れなかったが酔えば天下人じゃ」

「殿は飲めば虎でございます事」
「いや竜のつもりじゃ。それも幻の竜に姿を変えたアメノコヤネの生まれ変わりじゃ」
「それは祝着至極に存じ上げます」
 政宗は高笑いする。

 遠くで聞き覚えのある男の声が城内に響く。
「殿」

「なんの騒ぎだ」
 政宗は、成実の騒ぎに釣られて合戦さながらの興奮が蘇った。
「ここに居られたか殿」

 政宗の左眼が襖を開け放した無礼者を捉えると同時に舞姫らの悲鳴が上がる。
「殿、昼間から酒を飲む場合ではござらぬぞ。今日は平素から胸に燻った想いを吐き出し諌言する」

 成実は政宗の前に坐った。
「昼間から酒はお控え下され」
「要件はそれだけか」

「二代将軍秀忠公に眼をつけられれば御家お取り潰しに合い申す。まず先月(六月)十三日に、播州姫路の池田利隆を減封。世継ぎの届が遅かった故の仕置きで四十二万石から因幡鳥取三十二万石にされもうした。昼間から遊興三昧は風評に好ましくない。どんな因果をつけられるやもしれませぬ」

「わしの風評の好ましくないのは今に始まったわけではない」
「池田利隆の減俸国替えは何を意味しているかお分かりのはず」

「徳川幕閣の大久保勢力の一掃だろう。忠輝の初代家老、大久保長安の連座が続き利隆も例外ではない。遠戚という理由だけでな」
「左様、大久保一族は彦左衛門を除いて改易。それだけでは飽き足らず里見忠義は大久保忠隣の孫娘との婚姻が理由で連座し伯耆国倉吉に改易。十二万石から倉吉三万石。しかも幕府直轄領があり実質は三千石」

「だからどうした」
「殿、最後までお聞き下され。今月十四日には藤田近信が廃絶の手筈。来月には大久保忠為が廃絶される噂があります。ここ数ヶ月の改易の憂き目は全て大久保一族がらみ」

「秀忠と本多正純には大久保一族がいらないのだろう」
「忠輝様の不幸は大久保長安を家老にした事。殿は忠輝様の舅、このままただでは済みますまい」

「だから家康公が伊達家と離縁させた」
「ですが世間は離縁と聞いても縁が切れたとは思いますまい。江戸表の伊達謀反の風説、いらぬ言動や振る舞いを慎むのが必定」

「故に酔って幕府を安心させておるのじゃ」
「はたして良い方に解釈して下さるか不安でござる。このお膝元の仙台ですら殿の、家康が二度三十一万石、三十一万石と言ったので仙台六十二万石になったと風説がありますぞ。不用意な発言はつつしみべし」

「それも酒の席だ。とっぽ話だと笑え」
「それに殿、こんな時に」
 成実は座を見回し白拍子を睨みつける。

「舞とは呑気な事でござる」
 成実は、政宗と姫の距離を膝一つ分縮めた。政宗は改めて姫を見て席を外すように示唆する。

「婿先が改易され娘は戻って来る。お主自身は謀反の噂で一杯。こんな時に呑気に酒を飲むとは情けない」
「どうされました成実殿」                             

 少し離れた所に片倉小十郎重綱が座って同じように顔を赤くしていた。重綱は三十三歳の中年武将で景綱嫡男。父・景綱は昨年の十月に死去している。
 
 重綱も幼名は父と同じ小十郎で、紛らわしいので慶長五年白石の役で親子参陣した際に、父を「備中」と呼び、以後は「小十郎」とは彼の事を呼ぶ場合に使う。

 小十郎は美男子で、慶長七年に上洛した際には、中納言小早川金吾という秀吉の養子が懸想してそちこち追い回したくらいである。

「成実、いよいよ秀忠は、わし等が謀叛企み戦をする、という風説でも立ったか」
「まさか。そんな風説なら万事休すでござろう」

「あくまで謀反の企みがある、という巷の流言飛語の類(たぐい)。秀忠動くの報ではあるまい」
「いかにも」

「なら聞き流せ。恐怖や不安から生じた風説はいずれ消える」
 成実の悲壮な顔と惚けた政宗が対照的である。
「成実殿。何かのお間違いではござりませぬか」

「小十郎、貴様も殿を骨抜きにする愚策に手を染めるのか。事と次第では許さん」
「まさか、そんな」
「待て成実。大きな声上げるでない。話の枝葉は光を求めて上に伸び森になる。やがて美しき杜に山火事も起きる。それだけだ。飲めば闇は消える」

「その闇が光に勝ったら、どうするか」
「光は闇に負けぬ」
「口は災いの元、殿の心が見えれば良いのですが」

「見えれば困る」
「なんと」
「わしの腹は長年の荒波で真っ黒じゃ」

 政宗は成実の呆れ顔を見て笑う。
「真意は行動しなければ見えぬ物よ」
「でも飲む場合ではございますまい」

「動けば噂は本当になる。それとも風説に慄(おのの)き江戸に行って頭(こうべ)を下げるか」
 揺れる政宗は鼻の頭を赤くして香の前に注がせた杯を飲む。

「相手が何も言って来ぬのに弁解するのは反(かえ)って怪しい。果報は寝て待てじゃ成実」
 政宗は左手を肩の上に上げ散れと手を振る。

 揺れる政宗の左指はクネクネ動きながら一瞬キツネの形を作ったように見えた。

 唇を噛み締める成実は腰を上げ、激しく襖を締めると廊下の板が割れるくらい音をたてて立ち去る。

 その音に天井裏の鼠が驚いたのか微かに梁(はり)の上を走る。微かに揺れる梁、鼠は意外と重たいようだ。
 政宗は微動だにせず、杯に映る己の顔を見詰める。

 左の眼窩にくまが出来ている。それを眺めた後、一気に飲み干す。しばらくして舞は再開されたが、鼠はまるで成実の後を追って別棟へと伝ってゆく。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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