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龍の落涙(元和二年 伊達政宗の風聞騒動) 作者:GART

第3回   駿府の老人
二月二十二日駿府到着。

 平戸のイギリス商館長リチャード・コックスが一月二十三日の日記にこう記している。
「風評によれば、戦争は今や皇帝とその子カルサ様との間に起こらんとし、義父政宗殿は、カルサさまの口演をなすべし云々」
 とあった。
 
 周囲は異様にかきたてる。
 忠輝は風評を意識して武州深谷にてお経を唱える毎日である。

 その彼がこの世で、たった一人の父の危篤を知ったのは三月、母の茶阿局からだ。
 駿府に行ったが家康は城中にも入るのも許さなかった。

「むごい。忠輝を永遠に勘当するとは。天下人とは息子にも鬼になるのか」
 政宗は駿府城内で、その話を聞き胸中で毒舌を吐く。

 城に入って二十日は別間にて待機させられた。
「まてよ。臥せているのは影武者なら縁者と顔を合わすのはまずい。その類かもしれん」

 政宗が反芻していると襖が開いた。
 政宗はやや上目使いに見上げて驚愕した。

「内府殿」
 一回りも二周りも小さくなった白く衰えた老人を見て胸が篤くなり後の言葉が詰った。
 
 と同時に今後の行く末が不安になった。
 それまでは巷も謀反説が飛び交うし、自ら呑気に転覆させようと考えた節もあった。 ただ、それはやんちゃなガキ大将のノリに過ぎない。

 あくまで良き理解者の家康が存在した上での演出で、風説を迷惑と思いつつ楽しんでいる所もあった。
「秀忠事を宜しく頼む」
 
 と、老人は残り少ない力を振り絞って手を握ったのである。
 これが本来の家康公である。

「政宗、儂(わし)は忠輝に、つまらぬ了見を持たぬように笛をやった」
 と、家康の親心を知った。
「笛を・・・」
 
 政宗は老人の眼窩を見る。
「信長・秀吉そして儂(わし)が使い嗜(たしな)んだ『野風の笛』じゃ。この笛を吹くと天下が治まる、と言われておる」            
 
 政宗は大きく頷き感激した。
 この縦笛を渡し「笛を吹けよ」というのは、つまらぬ了見を捨て天下泰平を見守れという意味と、嫉妬する秀忠に遠慮したが忠輝も天下の器だと陰で認めていたという証である。

「忠輝が親の七光りの銅鑼(どら)息子であるものか」
 
 政宗は胸の中で安堵した。
「聞くに堪えぬ風評あれど、十四の才に徳川の名代で大坂城にて『不戦の誓い』をした心優しき若者だ。分けへだてなく庶民の事を気遣い何事にも興味を持つ忠輝は領民には好かれていた。家康公すら一時期は、権力争いに巻き込まれないために五郎八とバテレンの国に行かすべきかと悩んだくらいぞ」
 
 政宗は首が折れるほど、うな垂れ目を真っ赤に潤ませた。
「勘当の原因の一つである旗本斬殺の真相も男の面子だった。先を急ぐ忠輝勢に秀忠本陣が宿所を分けてくれなかったのだ」
 
 忠輝の重臣・安西右(う)馬(まの)允(じょう)正重が大坂夏の陣に同行し、尾張守山を宿所にと先を走った。
 秀忠から大和口方面の総大将を迎せ仕ったからだ。

 だが一足違いで今金屋坊・大永寺が秀忠の宿営になってしまった。
 戦(いくさ)にて家臣の忠輝が主(あるじ)秀忠に遅れたら御法度である。       
 一方の将軍秀忠は先の関ヶ原で真田の計略にかかり、合戦に遅参した。
 家康は激怒し一時期は将軍職さえ失いかねない事態となった。
 あえて、この度(たび)の合戦では最後に江戸を発(た)たせた。

 それも家康の配慮である。だが秀忠は遅参を恐れ、本陣だけ先を急ぎ足軽らは、まだ遠州付近であった。

 主(あるじ)が家臣より先に着いた形になったのだ後日、何の因縁をつけられる分かったものではない。
 忠輝の驚きと焦りが交錯するのは無理もない。

「焦る忠輝は安西を遣わし、秀忠の旗本・長坂信時とかけあわせたが、いがみ合いとなってしもた。忠輝の家老・花井主水(もんど)正(のしょう)義雄は槍をかざして切り込み、忠輝自身は長坂信時を一刀のもとに斬り捨ててしもた」
 
 政宗の眼窩が白く光る。

 花井義雄は忠輝の母・お茶阿の娘婿。いわば義兄の嫡男。重大事に采配する才のある家臣が乏(とぼ)しい。

「皆、若過ぎた。失態は認めるが勘当は承服出来かねる」
 政宗の手を触れる老人は疲れ再び眠る。政宗は起こさぬよう静かに退出する。
 
 政宗は長い廊下をしづしづと歩(あゆ)みながら、
「よくよく思案すれば影武者説も間違いだと分かるのだが野心に眼が眩(くら)むとそうはいかぬ」
 と胸を撫で下ろして客間に戻る。
 
 家康が大坂戦功の越前松平忠直の弟忠昌を賞した際に、大声で評したという。(東照宮御実紀附録)

 河内で大坂城突入の先鋒となり兄忠直と真田幸村を敗死させた戦果による。
 忠直や忠昌が影武者と本人の声を識別できぬはずもない。
 動かなくて正解だった。
 

 四月十七日ついに家康薨去(こうきょ)。
 
 だが政宗を取り巻く黒い風説は止むどころか勢い増した感があり、江戸は重い雲に覆われていた。

 今までは噂を時々愉しむ風な所があった。
 政宗は抜け目がない風説は武将として名誉な事と。

 されど日を追って増す悪意の塊を聞くにおよびつくづく、
「わしの良き理解者は家康公だった」
 政宗は思い知らされた。

「わしの一手両足、箸の上げ下ろしすら江戸は気にいらぬようじゃ。五郎(いろ)八郎(は)には家康遺訓のため、もはや忠輝救済の道は断たれたと離縁に応じて貰わなければならん」

 政宗は唇を噛み松平江戸屋敷へ使者を送った。
「良いか合戦になっては身も蓋もない。蔵の黄金を使い果たしても風説を消すように、秀忠に通じる公家や茶家、商人に伊達には野心など捨ておると打ち消させるのじゃ」


 政宗は近衛信尋(のぶひろ)や烏丸光広など京都公家衆に和歌を詠み安穏と暮す近況想いを綴った手紙を送った。

「この江戸にいては秀忠側近の術中にはまるのみ。出来るだけ速やかに江戸離れるのが良策じゃ」
 政宗は二代将軍秀忠に仙台への暇乞(いとまご)いを願った。


 
 

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Novel Editor by BS CGI Rental
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