「伊達の返答はまだ来ぬか?!」 満兼は家臣の上杉朝宗(ともむね)に聞く。 朝宗は返答に困る。もともと郡をよこせという無茶な要求を伊達が素直に飲むわけがない。
「鎌倉殿、天下の御政道に反する政(まつりごと)は、名君とは申せませぬぞ」 朝宗は、あえて満兼を鎌倉殿と敬意をこめて諌める。 過去に管領 上杉憲春が満兼の父である氏満に諫言して自害した悲劇がある。
それは氏満二十一歳の時に、一つ年上である三代将軍 義満の補佐である管領 細川頼之(よりゆき)を遠ざけて、前管領 越中守護 斯波義将(よしゆき)が再任された政変に一枚加わっていて、将軍義満から謀反の疑いがかけられる行動は慎むように憲春が諌めたのである。 二十二歳の青年将軍 義満にとって細川頼之を失うのは辛かったが、当時の環境は一時的に斯波氏に委ねるしかなく、彼の英断で再任となった。
しかし義満にしては一時的の処置に過ぎなかった。 まだ斯波と対抗するだけの準備が整わなかったから義満が折れただけで、腹心は頼之以外に考えられない。 管領 憲春は氏満の本心も分かるが、京都の真の政局も見えたので命をかけて諌めたのである。
ちなみに政宗は義満より二つ上で、氏満からは三つ年上であった。
先の見えぬ氏満は既に関東の武将に呼びかけて兵を集め、管領の再任の混乱を治める形で上洛するつもりであったのだ。
その前例がある故に、朝宗は心配するし、満兼も用意に本心を明かさない。 「埒もない事を申すな。わしは祝いの品が欲しいだけじゃ」 満兼は朝宗にそう言ってはぐらかす。
三代満兼で半世紀を越える関東公方職は、初代の祖父 基氏そして父の二代 氏満と世襲で今日まで来ている。
一方の朝宗の管領は関東公方が推薦し京都の足利将軍が任命する。 任期があるわけではないが、常設二名制で今まで山内上杉家と犬懸上杉家の上杉で独占されていた。 「旨く若き公方を指導せねば鎌倉府は危うい」と、朝宗らは自戒していた。
が、その危惧は現実の問題としてじわじわ鎌倉府全体の問題として深刻化していく。 二人の管領に内緒で、大内義弘や今川良俊らと、よしみを通じていたのである。
京都の義満は九月に鎌倉府が大内らに組みしないように、三千人の家臣を連れて東海道を東下し物見遊山した。 明らかに鎌倉を恫喝し義満陣営に留まれ!、という暗示をした。
これは奥州の伊達が満兼による巡行と申して白河や稲村に駐屯されて圧迫された状況を回避する意味もあった。 よほど義満は政宗が気に入ったのかもしれないし、それとも来る合戦の際の牽制に過ぎなかったのかもしれない。
満兼が奥州から帰還した十一月直後に、いよいよ京都の政局は異変が生じた。 大内義弘が同月に泉国の堺に上陸し、義満の京都上洛要請にも応じないのである。
「いよいよ時節到来じゃな」 満兼はさらに意気揚揚となる。 流石の朝宗も京都の展開次第では、満兼の野心を否定は出来ない。 武士たる者、道義はともかく覇者に成る機会には迷わず応じるべきなのである。
満兼は関東の武士団に召集を発した。 理由は京都の将軍の危機を取り除くという大義名分で。 むろん大嘘であった。
兼ねてから手紙で気脈通じていた今川良俊が大内氏と連動して挟撃しょうという策略に乗ったのである。
良俊は満兼が動けば、元・九州探題の地位を利用して西で挙兵するつもりであった。
義満は東西と南の堺から短刀を喉仏に突きつけられた形になった。 しかし昔と違って義満は老獪であった。元々大内氏を呼びつけたのは挙兵を陽動する意図があったのである。
大内義弘は長門・周防・石見・豊前・和泉・紀伊国の守護を兼任する有力外様で、南北両朝講和を周旋して中央の威望を高め、今川良俊が九州探題解任後は九州の実力者で海外貿易も推進し、義満には危険な存在であった。
それゆえに義満による挑発の意味合いが強い。 意見を聞きたいと長門から和泉に上陸した際に謀反の風聞を流したのである。 むろん義弘にその意思がないわけではないが、あまりにも唐突であった。
しかし風聞が流れると、このまま京都に上洛すると危ういと思うようになり、堺に留まってしまった。 なまじっか良俊にも胸の内を語っているだけに義弘もまずいと判断した。
堺に合戦の意図で上陸したのでなく上洛なのであるから、そんな準備もしていない。
義満の強気は四面楚歌ならば、こちらが準備し挑発陽動して殲滅すべしという物である。
ここ二来て義満の脳裏には政宗の挙兵という切り札があるのが強みである。 義満は絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を遣わしてその意思を確かめた。 義弘はその意思を結果的に認め、改めて宣戦布告した。 その報は遠く鎌倉にも届いた。
満兼は集まった十万の軍勢を束ねて中旬には鎌倉を経ち伊豆に進んだ。 今回は流石に朝宗らの管領も反対しなかった。
大内の二万が堺におり京都の義満が対峙している間に、九州と関東が東西で動き出せば天下の情勢は急激に変化するからである。
「ついに来たか」 政宗は義満との約束を果たす時が来た。 義満はあえて危機を乗り切るために陽動したのである。 それは伊達が関東勢を惹き付けるだろうという策戦の上での背水の陣である。
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