(あとで補修工事必要) 「なんと理不尽な要求を満兼様はなさるのか!」 政宗は絶句した。
それもそのはず、関東公方 足利満兼は政宗に関東公方就任の祝いに伊達の土地を献上せよというのである。
応永五年(1398)十一月四日の父・氏満の死去により、当時二十一歳の左馬頭従五位下満兼が家督を継ぎ関東公方となった。
満兼の最初の発給文書は、応永五年十二月二十五日鶴岡八幡宮に陸奥国石河荘内石河大寺安芸入道跡地を、天下安全・武運長久祈祷のために寄進したものである。
「同意できるわけがなかろう」 政宗は煮えくり返る怒りを押さえる事が出来ない。 かと申して、あからさまに拒否する事も出来ない。 世は足利幕府の時代に移り、京都室町に幕府があり関東・奥州を管理するのが関東公方の役目。 その就任祝いゆえに政宗も破格の贈答を考えていたものの、まさか伊達の所領をよこせとは夢にも思わなかった。
そうなると京都の義満公との線を大事にせざるを得ない。 だがそれは中央の政治に巻き込まれるという二次災難も併発する恐れがある。 しかし郡を返上には応じられない以上、仕方ないし第一、それで満兼が納得してくれるとは限らない。 あくなき欲求は伊達の所領全部を没収したいのではないか。 そんな不安が湧いて来てもおかしくない。 若き満兼は青年ゆえの気宇な世界で、将軍にとって代りたい願望があるのだ。 少なくとも政宗はそう解釈した。
翌六年の春に満兼が手がけたことは弟二人を奥羽の代官として陸奥国に派遣したことである。
次男 満直が篠川に四男 満貞が稲村に下向した。 稲村は現在の福島県須賀川市内にあり、篠川は同県郡山市内にある。 奥羽二国を関東公方が統治するにはあまりにも南過ぎるが、これが統治の限界であった。
鎌倉府から見れば遠く多賀城ぐらいに拠点を起きたかったのだが、伊達の勢力が大きいゆえに、この南奥羽が精一杯だったのだ。 多賀城のとなりが千代(後に仙台と改名)である。
四月に満兼は祖父・基氏の三十三回忌にあたり、紀州の高野山にある一心院に風誦文も捧げた。父・氏満から祖父の話を聞いて追慕するだけでなく京都方面にも関心があるらしく、それとなく周辺の興福寺に立ち寄り鎌倉に東下した。
五月に政宗は長井庄の北条三十三の郷を無償で献上すると鎌倉府に伝えた。 政宗には正直、これが限度である。
置賜郡は長井氏と三十年もの合戦によって、ようやく手に入れた所領である。 いくら満兼の希望であっても身を斬る思いである。
鎌倉からの返書は当然、郡を召し出せという酷な内容であった。
満兼は、七月二十八日に陸奥・出羽国両国巡行と称して鎌倉を立った。 出羽および陸奥巡行は名目で、実質は伊達に武力を誇示した威圧巡行は明白である。
政宗は平静を装っていたが、義満には鎌倉府の動向や所領献上の件の嘆願も合わせて書き綴った。 義満は京都に難あれば合力せよと言うだけでせ、土地の件には触れなかった。 その件は管轄外だと言いたいのだろうか・・・。
満兼は政宗の焦燥を他所に、まず陸奥の白河に赴き、その後に稲村に駐屯し鎌倉に帰ったのは十一月であった。(喜連川判鑑)
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