(あとで補修工事必要) 応永四年四月一日、政宗は弟の孫三郎宗行と妻の咲々そして近習数十人を連れて京都に上洛した。 目的は義満公に謁見するためである。
永徳四年(1384)頃、政宗は父と上洛している。 政宗三十一歳の頃である。この時は父・宗遠が亘理郡の武石氏を討って従え出羽の置民郡に成嶋荘八幡宮を造営し南奥羽の武威と地位の認証を幕府にして貰うために上洛した。 京都は霊都で大津は鬼門の方向にあたるので、政宗一向は石清水八幡で旅具足を脱ぎ、ここで数日過ごす事にした。
石清水八幡はいわずと知れた妻の実家である。 咲々の父別当通清の饗応を受けて、ゆっくり室町花の御所へと政宗一向は進んだ。
既に時代は南北両朝統合して五年経ち京都は泰平の春を謳歌しているように表面は見えた。 しかし応永四年は政宗にとって、いや義満にとっても嫌な年明けになっていた。
まず政宗は父・宗遠の里である田村が小山義政の息子・若犬丸を庇ったために領地を関東公方の氏満に三分の一に削られ、しかも正月早々に若犬丸を差し出した。
下野国の小山義政らの反乱は十年の歳月の故に、息子・若犬丸が田村に逃げ込み、同情した田村が鎌倉殿の兵と戦って降参したのである。 政宗も暗に田村氏を応援していたのだ。
これを機に奥州では鎌倉府に表面的に叛旗を起こそうとする者はいなくなった。 政宗も田村温存のために改めて恭順の意を示したのである。
ところが京都幕府側から密かに鎌倉府の言いなりにならず協力せよと御内書が届いた。 発行人は義満である。
義満はこの所の巷の氏満謀反という風説を信じたのである。いわば牽制する意味で伊達に呼びかけたのである。
「政宗、どうじゃ世阿弥の舞いは?」 義満は政宗に感想を求める。 「政宗は田舎者ゆえ、こんな素晴らしい舞いを見るのは初めてでございます」 政宗は女子よりも、しなやかな世阿弥の動きに感嘆した。 「政宗、わしに何かある時は合力してくれるな」 「滅相もない。この政宗、命にかえてもお守り致します。されど、この泰平の京都に不穏な動きなどありますまい」 「何をとわけた事を申すな。わしの周りは敵だらけじゃ。四面楚歌と申しても良いわ」 「これはお戯れを」 「まず長門の大内、北陸の斯波、山陰の山名そして・・・」 「そして・・・」 「分かるな政宗」 「・・・・」 「無理に答える必要もない。わしも考えたくもないわ。されど京都に何か起きた時は、政宗よ。わしを助けると思って挙兵し目を惹きつけるのじゃ」 政宗は平伏した。 「お主もこのままでは難癖をつけられて小山のように消えるやもしれん。わしも今、東西南北から攻められてはたまらん」
義満はこの時期、険悪になりつつある氏満に大権を与えた。 つまり奥州管領制度を廃止し、関東公方が兼任するという下知を下した。
それは昔の康暦の政変の恩義と小山反乱が遠因である。 まず康暦の政変は昔、義満がまだ二十二歳の時に京都の斯波氏が謀反を起こし、それを封じる兵を氏満に頼んだ。 氏満は返答したが兵は動かさなかった。正直申せば逆に将軍になれると邪心を抱いたのである。 いわば風聞は真実であった。
斯波氏は京都だけでなく一族は奥州管領斯波(大崎)であり、この時期の義満には一兵でも欲しかったのである。 まだこの時期は義満の足元は固まってなく、一旦管領の細川頼之をはずし、斯波の管領再任を認めて時を稼いだのである。 折りを見て斯波氏と戦い破った。 この時、動かさない氏満ではあったが、乱の後も懐柔の意味もあって、かねてから懇願された鎌倉府による奥州・関東兼任の件を今回の小山義政の反乱鎮圧に十年の歳月がかかるのは関東・奥州の泰平という見地からは得策ではないと考えて応じたのである。
義満は未だに周囲は敵だらけである。むろん危機というよりは尊氏以来の態度の大きくなった守護一族の力を少しづつ削って来て、今度は反感を持った豪族らが組んで一体となり義満に挑む空気になってしまった。
むろん政宗は政宗で田村減俸の下知や今まで任されていた奥州での税徴収権限も制約を受けるのでは、鎌倉府の言いなりにはなれない。 また氏満は奥州・関東兼任を大いに喜び、関東・奥州の武士団に鶴岡八幡に多額の寄進を強要した。 この所の氏満の専横は日に増す勢いなのである。このままではどんな難題を伊達に投げかけられるか分かったもんではない。
が幕府もどうなるかは分からない。幕府と鎌倉両方に友好を築きたいのはやまやまだが、政宗には鎌倉とはよしみを通じる諸事用が許さない。
「よいな大膳大夫政宗、余の言う通りにせよ」 義満の言葉に耳を疑った。 「今なんと」 「今日から大膳大夫と名乗るがよい」
また政宗は自身と父祖の和歌を高覧に供したという。義満はその出来栄えを冷泉為重に問い、選集に入れることを求めた。 為重は、勅撰和歌集の「新後拾遺倭歌集」に載せている。 政宗と義満のなみなみならぬ関係を物語っていると言える。また政宗は公家の蹴鞠鑑賞しお礼として積善院・聖護院門主・飛鳥井らに総額として砂金五両・錦五把を贈る。たぶんに朝廷に対しての口利料も含んでいる。 政宗は感激して赤館についた直後に、氏満の様態が悪いという風説が届いた。
政宗は新たな動乱の時節到来を感じ取った。 稲妻は音もなく光、それは秋の到来と稲の収穫を表す季節の風物詩でもある。 政宗四十四歳、時という大河のうねりは、もうすぐ南奥羽を飲み込む手筈になっていた。
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